11月7日(日)に、第5期真庭なりわい塾の第3回基礎講座を実施しました。今回の講座では、地域のご高齢の方々に昭和30年代頃のお話を聞き、食や農の変遷や現在の食生活について改めて考えました。
事前学習として、10月29日(金)に、副塾長の駒宮博男(NPO法人地域再生機構理事長)がオンラインで講義を行いました。
〇事前学習:「食と農を考える~食と農はなぜ分断してしまったのか~」
副塾長は、岐阜県恵那市で、お米や野菜、果物など、その多くを自給しています。講義は、自身で自給している作物の話からはじまり、日本における米作りと消費の変化、現代の食と農の分離、日本の食料自給率の低さ、自給的農業の意味や価値など、食と農の変遷と現状を俯瞰的に学びました。
〇講座当日:食と農に関する聞き取り
4つのグループに分かれて聞き取りを行い、それを模造紙にまとめて発表しました。
■Aグループ 阿口・杉集落
杉集落は標高の高い山の上に位置し、雪も多く積もる地域です。公会堂で池田須美子さん、黒田茂さん、黒田秀男さん、椙原啓二さんの4人にお話を伺いました。海の魚や塩以外はすべて自給でした。富原方面から行商が来て、干し魚やちくわなどを米と交換して買いました。行商の中には、お酒を水枕に入れてやってくる朝鮮人の方もいたそうです。
お米や麦、野菜は、家族が必要な分だけ田畑で作り、養蚕やタバコ栽培で現金収入を得ていました。農閑期になると薪をとり、炭焼きをしました。稲わらは牛の餌にするほか、小縄や筵(むしろ)にするなど、冬も忙しく過ごしていました。
阿口には竜王山という大きな山があり、湧き水が豊富な反面、湿田が多い地域だったそうです。そこで大正時代に当時としては画期的な圃場整備事業が行われました。その場所を大正田と呼んでいます。須美子さんが嫁がれた頃は、湿田にはまらないよう、田の中に木を敷いて手植えしたそうです。早朝から働いて夜なべをし、食事は一日に4回、1年間に一人3俵ものお米を食べたそうです。川にはウナギやドジョウもいましたが、農薬の普及とともにいなくなりました。現在は、家庭菜園の他に、葡萄や黒大豆などを出荷用に育てている世帯もあります。
■Bグループ 中津井
郷土料理が自慢の宿泊施設「なかつい陣屋」を切り盛りしている岩藤二葉さん、間久保靖子さんはじめ70~80代のご婦人方5名にお話を伺いました。
昭和30~40年代、中津井の町は、商店で賑わっており、旅館やパチンコ屋、ダンスホールなどもありました。味噌や醤油、豆腐など、何でもお店で買うことができましたが、町で暮らしている人は、野菜はもちろん、味噌や醤油も自分で作っていたそうです。現在も、自給用の野菜は買わずに作っています。お米もスーパーでは買わず、自分で作っているか、知り合いの農家から直接購入します。一方、味噌は大豆などの材料を持ち込んでJAで作ってもらい、醤油はお店で買うようになりました。
北房地域で300年以上続くブリ市はもともと中津井で旧正月前に行われていました(現在は呰部で2月の第一日曜日に行われています)。ブリは囲炉裏で燻され、田植えごろまで大切に食べていたそうです。他にご馳走といえば、秋祭りの鯖寿司。4日〜1週間ほどかけて仕込みました。昔は山陰からやってくる行商の魚屋から鯖を買って仕込み、包装には竹皮を使っていました。今は、鯖寿司用の塩鯖をお店で買い、包装紙を使う人がほとんどです。時代とともに少しずつ変化はしているものの、今も大切にされている郷土料理です。
■Cグループ 呰部・植木(えき)集落
園芸指導員をしていた平田忠さん、兼業農家で、ほぼ自給自足の暮らしをしている大月久子さん、北房生活交流グループの一員である南條祥子さんの3人にお話を伺いました。
かつては旧暦で農作業を行い、「春には芽のもの、夏には葉のもの、秋には実のもの、冬には根のものを食べる」という生活が基本でした。春は山菜を採りに山へ行き、夏は畑で葉物野菜を採る。秋は茄子やピーマンなど、冬は大根や芋を食べていたそうです。
田植えが終わると、「しろみて」という行事を行い、痛めた首や肩の腱を慰労するため「けんびき焼き」を食べました。また、正月には必ずブリの切り身を入れた澄まし汁のお雑煮を食べる習慣があります。
お話を伺ったあと、平田さんの田んぼと畑を見せてもらいました。自家用の野菜は全体の1割ほどで、残りは直売所や農協に出荷しています。1反ほどの畑には甘長唐辛子やネギ、茎ブロッコリーなど少量多品種の野菜が植えられていました。出荷用の野菜は1グラム1円でようやく採算がとれるとのこと。完全に無農薬で育てるのは無理だとおっしゃった言葉が心に残りました。その場でパプ丸という品種のフルーツパプリカを収穫し、いただきました。フルーツパプリカは糖度が高く、直売所でも人気の商品です。虫除けのために足元にネギを植え、工夫しているのが印象的でした。
■Dグループ 上水田・小松集落
80代半ばの竹中恵美子さん、90歳の岡本弘子さん、北房生活交流グループの岡崎英子さんに、昭和30年代の暮らしを伺いました。当時は米と大麦の二毛作が基本で、田の畔には、味噌をつくるための白大豆を栽培しました。野菜は種をとって苗から育てます。山ではタケノコやワラビなどの山菜、マツタケなどのキノコを採りました。農耕用の牛や、乳をとるためのヤギを飼っていたので、山には草地が広がり、獣害もなかったそうです。今は山に手が入らず、山菜やキノコもほとんど採れなくなり、獣害が増えました。どの家も、家族の人数と同じぐらいの鶏を飼って、卵をとっていました。川では川魚のほか、ウナギもとりました。味噌や醤油、豆腐、コンニャクのほか、濁酒も家で作っていました。菜種を栽培し、油も自給していました。お金で買うのは、叺(かます)に入った塩に砂糖。あとはたまに塩サバを買う程度だったといいます。ちなみに味噌をつくるための麹も自家製でした。旧正月前に開かれる中津井のブリ市に出かけ、米1俵とブリ1本を交換して帰るのが誉(ほまれ)だったそうです。当日は、餡子入りの饅頭をミョウガの葉で巻いて焼いた「けんびき焼き」をわざわざ準備いただき、干し柿など含め、手作りのお土産をたくさんいただきました。
4つのグループのお話から、北房地域の山村エリアと農村エリア、そして商家が集まる町場それぞれの、かつての自給自足を基本とした暮らしと、現在も農業が盛んな北房の一面を垣間見ることができました。塾生にとっては、自身の現在の食生活と比較して、考えさせることが多い回だったようです。
○塾生の感想(一部抜粋)
・北房の皆さんの自給自足のレベルが想像以上で、自分がいかに食や農と切り離されたところで生活していたのかと実感しました。
・自分の身体が何によって形成されているのかを改めて考えさせられました。
・昭和30年代頃に買っていたものは、塩、砂糖、海の魚だけだと知って驚きました。また、かつては、ほとんどの野菜の種をとり、自分で苗を育てていたのに、今は種も苗も、多くの方が、近隣の今も苗を育てる農家から分けていただくか、農協やホームセンター等で「買う」ようになっていることに衝撃を受けました。
・食について、私は何も知らないと気づきました。オーガニックや地元のものを買いますが、それもパッケージに書いてある情報だけで、作物の流れは把握できていません。
・町で生活する私は、ベランダ菜園をしようと思っても土から買いにいかなくてはならず、「買う」から「つくる」への転換の難しさを実感しました。
・田舎暮らしは一長一短あると聞きますが、やはり私は田舎で自給自足する生活に憧れます。自然を土台にして生活するのは、やはり安心感があるなと思いました。
次回の講座では、ご高齢の方々の半生をじっくりと「聞き書き」します。子どものころから現在までの地域の変遷、家族の歴史、農山村で暮らす豊かさや厳しさ、それぞれが抱く想いを、改めてお聞きしたいと思います。