7月6日(土)~7日(日)に、第8期基礎講座を開催しました。今回は、駒宮副塾長の講義とあわせて、地域の方に食と農の変遷についてお話を聞き、私たち自身の食の在り方や農業のこれからについて考えました。
◆「食と農を考える」 副塾長 駒宮博男(NPO法人地域再生機構理事長)
食を考えるのは、あなたの体が何でできているかを考えるのと同じです。私たちの体細胞は60兆個あり、ほぼ3か月で入れ替わるといわれています。日々の食が変化したものが、あなたの体であり、食を考えることは、あなたのそのものと、あなたを取り巻く環境すべてを考えることです。
和食の基本は、米と味噌と漬物です。私は、お米や野菜は、ほとんどを自給していて、味噌も毎年、自分でつくっています。ところが多くの日本人は、食べものをスーパー(市場)で買う(お金で得る)ようになりました。
世界を見ると、多くの先進国の自給率は100パーセントを超えています。しかし、日本の食料自給率は低く、38パーセントです。日本とイギリスの食料自給率は、1960年代は一緒でしたが、その後、イギリスの自給率は上がり、日本は下がりました。なぜでしょうか。
工業製品を売って、食料は海外から買う・・・。高度経済成長期以降、日本は、そういう国へと舵を切ったのです。日本は、農産物の多くをアメリカや中国から輸入しています。食生活も変化し、米の消費は半減しました。その代わり、パンや油、そして肉を多く消費するようになりました。大半の食料を海外から得ている日本は、さまざまなリスクにさらされています。政治的な対立、国家間の紛争、そして地球温暖化や世界的な気候変動などです。
一方で、国内の農業人口は絶望的に少なく、75歳以上の高齢者が頑張って支えている状態です。10年後、日本の農業は間違いなく崩壊します。
「農業は儲からない」とよく言いますが、そもそも働くことを「貨幣経済」でしか評価していないこと自体、間違っているのかもしれません。
「貨幣経済」には、「子育て」も「食の自給」も含まれていません。もしかしたら、一人ひとりが「つくる」割合(自給する割合=非貨幣経済)を増やしたほうが、社会は安定するのかもしれません。
たとえば、私の家でつくっている米や野菜を、仮に市場価格で換算してみましょう。すると、年間50万円ぐらいになります。「つくる」ことはそれほど大変ではありません。家族3人で、毎日平均30分ぐらい働けば、食の大半を自給できます。食に加えてエネルギーも自給すれば、年間100万円ぐらいにはなるでしょう。その分、私たちは稼がなくても済むということになります。
もしも、日本国民の1千万世帯が、私と同じように米や野菜を自給したら、いったい、いくらになるでしょうか。5兆円です。日本の国内総生産(GDP)に占める農業の割合は、8.8パーセントで4.8兆円ですが、それとほぼ同じ数字になるのです。
皆さんも無理なく、少しずつ、食と農を楽しんでください。
◆食と農に関する聞き取り
講義のあとは、グループごとに地域の70代、80代の方を訪ね、食と農の話を聞きました。昭和30年代後半から昭和40年代あたりを境に、農業や食生活にはどのような変化があったのでしょうか。田んぼや畑を見せていただきながら話を聞き、2日目には各グループで発表を行いました。
◎Aチーム 田中美智子さん(別所集落・70代)
田中さんは、小学校2年生のときに母親を亡くし、祖父と父親に育てられたそうです。
現在、大根、ニンジン、ジャガイモなどの根菜類、白菜、キャベツなどの葉物類、キュウリ、ナス、トマト、カボチャなどの果菜類、ショウガやニンニクなどを含め、私たちがスーパーで見る野菜は、ほぼすべて自給しています。収穫した野菜は自分の家で食べるほか、農協の直売所や道の駅、真庭市場(真庭市の直売所:大阪府高槻市にある)などに出荷しているそうです。米は、主に息子さんがつくっています。
味噌は、もともと家でつくる習慣はなく、鳥取の業者に委託しています(原料の青大豆と米は自家製)。でも、こんにゃくは自家製で、お正月前には必ず豆腐をつくるそうです。
春先は、ウド、ワラビ、コシアブラ、タラノメなどの山菜をよく採りに行きます。
キノコは、原木椎茸を栽培しているほか、秋には山でコウタケを採ります。コウタケは香りが豊かで、ご飯に炊くとおいしいそうです。
昔はウナギのほか、オオサンショウウオも近くの川で獲っていたそうです。オオサンショウウオの食感はフグのようだとか。その他、鳥取から魚の行商がよく来ていました。エイなどを買って、煮つけにしたそうです。中和地区の伝統食であるコケラ寿司には、シイラを使います。中和地区でも別所や吉田の集落では、昔からサバではなくシイラを使ったそうです。
かつては鶏を飼い、卵もとっていました。しかし、親鳥がキツネに襲われてからは、飼っていないそうです。イノシシやシカが出るようになったのは、ここ10数年前からとのこと。息子さんが罠を仕掛けて獲っています。
果樹は、リンゴやモモ、ブルーベリーを栽培しています。中和地区は、涼しいので、柑橘類をつくることは基本的にできません。でも、地球温暖化の影響なのか。今年は初めてユズの実がなりました。
田中さんは、若い頃から、縫製工場に勤めに出ていました。なので、農業を本格的に始めたのは15年ほど前からだそうです。今では広い畑で、トラクターも自分で運転し、多くの野菜や果樹を育てています。田中さんのお話を聞くと、もしかしたら、私たちもやればできるかもしれないという気持ちになってきました。
◎Bグループ 実原閑枝さん(一の茅集落・80代)
実原さんは、昭和30年頃に旧川上村から一の茅集落にお嫁に来ました。当時は、夫と父親、母親、そして子どもと暮らしていました。長男、長女は独立。現在は、夫と次男と一緒に暮らしています。
自宅の裏手には3列のハウスがあります。野菜は種を買ってきて、苗から育てています。その他、パプリカやトマトを作って直売所に出荷しています。しばらく前までは、メロンも作っていたそうです。近くの山乗渓谷では、ワサビ田も作っています。かつてはワサビ漬けを作り、それも直売所に出荷したそうですが、今は、滝の水量が減ったせいか、ワサビが根腐れを起こし、ワサビ漬けは作っていないそうです。
昔は、狩猟で、ウサギやヤマドリを獲りました。家では、牛や馬、ヤギを飼っていました。馬で馬耕し、牛は牛乳を搾って出荷。ヤギの乳は自給用だったそうです。お姑さんは、熱々のご飯にヤギの乳をかけて醤油を垂らすのがおいしいとおっしゃっていたそうですが、閑枝さんはヤギの乳は苦手だそうです。
鳥取から行商からは、シイラやサバ、クジラ肉を買いました。味噌や醤油、豆腐、こんにゃくなどは、すべて自分の家でつくりました。昔は、菜種油も自分で絞り、ドブロクも作っていました。椎茸は干し椎茸にして保存。おやつは、自家製の米粉を使って、煎餅を焼いて食べたそうです
一の茅集落は、家同士のつながりが深く、山菜を採りに行くのも、みんなで山に行ったそうです。
80代の閑枝さんにとっての「食」は、単に米や野菜だけではなく、味噌も醤油も、豆腐などの加工品も、保存食も、さらにはドブロクや油に至るまで、すべて自給するのが当たり前でした。
◎Cグループ 三船祝典さん(下鍛冶屋集落・80代)
三船さんからは、昭和30年代以前の暮らしと、昭和30年代以降の暮らしを、比較しながらお話を伺いました。
以前から、中和地区の農業は、稲作が主で、かつては牛で田んぼを耕していました。牛は草を食べるので、毎日草刈をしなければなりません。敷料と牛糞をまぜて、たい肥にしました。山は、家ごとに区分けして、燃料に欠かせない薪をとっていました。炭も焼いていました。換金用の作物は葉タバコで、米や炭も売っていました。地域内では物々交換が多く、お金を使うことは、ほとんどありません。買うのは、行商が売りに来る魚ぐらいでした。
昭和30年代以降、農業は機械化されました。人と牛で成立してきた循環型の暮らしが、この頃から変わってきます。食の嗜好も変化し、バリエーション豊かな食事になりましたが、その分、地域内だけでは対応できなくなり、倉吉などのスーパーで食料品を買うようになりました。
昔は、中学を卒業したら農業を手伝うのが当たり前でしたが、今は、みんな高校や大学に進学するようになり、子どもの教育にもお金がかかります。日々の暮らしで、お金の価値が上がってきました。薪は使わなくなり、エネルギーも外部に依存するようになりました。一見、豊かになった暮らし。でも、それは何かあれば、危うい構造にあります。
昔は、お腹が減れば、山のどこに行けば食べるものがあるのか、子どもでも知っていました。「お腹さえ満たされれば幸せ」で「お米さえあれば何とかなる」という気持ちで日々、働いていました。今は、モノは選び放題で、「お金があれば何とかなる」という暮らしに変化しています。私たちにとって、幸せや安心とは何かを、改めて考えさせられるお話でした。
◆「地域で農を営む人とのディスカッション」
2日目は、中和地区で農業を営む三船敬太さん(下鍛冶屋在住)と、蕎麦屋を営む上田善宗さん(野辺在住)をゲストにお迎えし、ディスカッションを行いました。
三船敬太は、お父さんと二人で、パパラギ農園を営んでいます。米が6町歩、蕎麦が3町歩、その他、大豆などもあわせると10町歩ほどの農地を経営しています。自分の家の田畑は1町歩にも満たず、ほとんどは地主さんから借り、作業を請け負っている農地です。パパラギ農園の米は、有機農業でつくっています。なので、化学肥料は使いません。
米づくりで最も手間がかかるのは除草です。請け負っている面積が広いこともあり、半分近くは除草剤を使っているそうですが、一部は合鴨を田んぼに放して除草しています。今年は、カラスの被害がひどく、田んぼに放した雛鳥70羽のうち、3分の2ほどしか残っていません。3週間ほど前に鉄砲で脅して、ようやくカラスの被害は収まったそうです。獣害対策は電柵などを張って防除する程度で、イノシシは箱罠を仕掛けてとっています。
有機農業をはじめたのは、お父さんの進太郎さんの代からです。収穫したお米は、東京や大阪の米屋に直接出荷するほか、有機・低農薬野菜などを扱う「らでぃっしゅぼーや」にも卸しています。その他、平飼で養鶏もしています。
敬太さんがお父さんと一緒に農業をしようと考えたきっかけは、三重県伊賀市の愛農学園という農業高校で学んだことが大きかったと言います。高校では、米や野菜のほか、養豚、養鶏、酪農などを学ぶことができます。全寮制の学校で、今も一緒に過ごした同級生は、大切な仲間だそうです。
もう一人、お話を伺った上田善宗さんは、5年前に東京から奥さんと小学生のお嬢さんと一緒に、中和に移住してきました。もともと和食料理の修業をしていました。実家が造り酒屋で、酒に恩返しをしたいと思い、日本酒に合う蕎麦屋をやりたいと思ったそうです。世田谷区の豪徳寺で開業したお店は、都内でもおいしいと評判のお店でした。けれども、蕎麦を自分で栽培してみたいと思い、いずれ家族や親戚がいる福島県浪江町に戻ろうと考えていました。しかし、東日本大震災で被災し、家も蔵も壊れ、造り酒屋は廃業。現在、実家は更地になっているそうです。
たまたま知り合いの紹介で、中和地区に先に移住していた蒜山耕藝の高谷裕治さん・絵里香さん夫妻と出会いました。誰も知らない土地に行くよりは、知り合いがいる土地のほうがいいと考え、中和地区を移住先に選びました。
現在は、蕎麦屋を営む傍ら、蕎麦を栽培しています。自家用の野菜を育てる他、小麦や大豆も作っています。今年から、パパラギ農園の三船さん親子にお世話になり、酒米も作り始めました。酒米は知り合いの造り酒屋に卸す予定です。
お店では、ジビエも出しています。イノシシは骨まわりの肉で出汁をとり、肉の入ったカレー蕎麦に。また、低温調理でローストしたり、燻製にもしています。
庭で飼っている鶏は、パパラギ農園から分けてもらい、三船さん親子に飼い方も教わったそうです。
中和地区で農業を営んでいる移住者の多くは、パパラギ農園でしばらく働かせてもらっている人が多いと言います。そこで学んだことをベースに、それぞれ自然栽培や平飼養鶏をしています。進太郎さんは懐の広い方なので、何でも教えてくれると言います。
米の収穫の時期、上田さんはパパラギ農園のライスセンターの仕事を手伝っています。ライスセンターで行うのは、コンバインで収穫した米の水分調整を行い、出荷する作業です。パパラギ農園で収穫した米以外にも、何軒かの農家の米の出荷をここで行っています。多くのライスセンターは、コンパックという1トン袋で米を出荷しますが、パパラギ農園では、30キロの米袋に詰めて小分けし、誰が作った米なのかをきちんと明記しています。
中和で農業や食品加工、飲食業等に携わる人は、お互いに持ちつ持たれつで、支え合っているのです。
中和地区は、耕作放棄地は、まだ少ないほうかもしれません。パパラギ農園と同様に、地主さんからある程度まとまった面積を任されている農家がいるからです。でも、中には、無理をしながら農業を続けている人もいます。あと5年もしたら、5町歩、10町歩単位で、米を作らない田んぼが増えていく可能性もないとは言えません。
中和で農業をはじめたいと思う人は、パパラギ農園をはじめ、周囲の農家から、機材や道具、あるいは農地を借りることができるでしょう。野菜苗も、近くの農家から分けてもらうことができると思います。そうして、少しずつでも農業をはじめる人が増えれば、中和地区の農地は、これからも荒らさずに、保全することができるかもしれません。
次回は、「地域の産業と暮らし~里山と林業~」をテーマに講座を行います。