第6期基礎講座 地域の産業と暮らし「食と農」

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7月9日(土)~10日(日)に、第6期真庭なりわい塾の基礎講座を実施しました。今回の講座では、食と農に関する講義とあわせて、地域のお年寄りに食と農の変遷についてお話を聞き、また、地域で農業を営む方とのディスカッションを通して、これからの食と農のあり方について考えました。

〇「食と農を考える」 副塾長 駒宮博男(NPO法人地域再生機構理事長)

駒宮副塾長は、岐阜県恵那市で、お米や野菜など、ほとんどを自給しています。自給率は60%ぐらいになるのではないか、とのこと。一方で日本全体を見ると、ここ50~60年ほどの間に、自給率は70%代から40%代を下回る数字になっています。日本とイギリスの穀物自給率は1965年には同じでしたが、高度経済成長期を経て、日本の自給率はどんどん低下しました。お米の反あたりの収量は増えましたたが、消費量は5分の2程度になりました。お米に代わってパンの購入額が増え、肉の消費量も増えています。麦や大豆などは、アメリカや中国からほとんど輸入し、賄っています。しかし、アメリカでは大干ばつが起こり、中国との関係も良好ではありません。農作物の輸入が増える一方、国内の農家は、ここ30年の間に急速に減少しました。しかも、その平均年齢は70歳前後です。あと10年もすれば、日本の農業は崩壊します。一方で、国民の2割が食料を自給すると仮定し、それを金額換算すると、その売上は5兆円にもなります。自給であっても、ビジネスであっても農に関わる人が少しでも増えてほしいと思います。また、都会に住む人はCSA(Community Supported Agriculture=地域支援型農業:生産者と消費者が連携し、前払いによる農産物の契約を通じて相互に支え合う仕組み)に参加して、農家を支えてほしいと思います。

〇食と農に関する聞き取り

講義のあとは、グループごとに食と農に関する聞き取りを行いました。昭和30年代後半から昭和40年代を境に、農業や食生活には具体的にどんな変化があったのでしょうか。70代の方々を中心に、自給用の畑などを見せていただきながら、お話を聞きました。そして2日目には、各グループで発表を行いました。

◆Aグループ:小椋清子さん(一の茅集落)

一の茅集落の中心にある小椋清子さんの家の周りには、自給用の畑がぐるりと取り囲んでいます。野菜は何でも自給していて、それは今も昔も変わりません。お米も昔から潤沢にあり、ソバやアワなどの雑穀は作らなかったそうです。

昔は、農耕用に牛を飼い、草を刈っていたので、山菜もよく採れました。卵をとるための鶏や乳を搾るためのヤギも飼っていました。そして味噌や豆腐、コンニャク、黄な粉も自分で作っていました。

昔は、「毎日2升の米を炊いて、一人4合はご飯を食べていた」と言います。

朝食の献立は、味噌汁にご飯。昼はおにぎりで、塩結びか、味噌をつけて囲炉裏であぶって食べていました。夜も味噌汁とご飯。そうした献立に漬物がつく程度だったそうです。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節には、「一日に玄米4合と味噌と少しの醤油を食べ……」とありますが、その言葉通りの食卓だと感じました。

今はご夫婦だけで暮らしているので「一日に2~3合しか米を炊かない」と言います。

清子さんは、「畑の草は人間の産毛みたいなものだから、そんなにとってはいけないし、除草剤を使うなんてとんでもない」と言います。「畑にはトノサマガエルもおるし、人間だけのものではない」と。

そして「スーパーでの買い物は一週間に一回だけ。スーパーに行っても、あまり買いたいものはなく、すぐに家に帰りたくなる」という言葉が強く印象に残りました。

◆Bグループ:美甘幸子さん(真加子集落)

幸子さんは、退職後に見様見真似で畑を始め、今の時期は30種類ほどの野菜を育てています。「野菜が可愛くて、畑に出ては声をかけて回る。怒って畑に出ると、野菜は上手く育たない」と言います。

幸子さんが子どもの頃は、お米がお金として使える時代でした。鳥取から来る行商の人から魚を買うときには、お金の代わりにお米で支払うことがあったそうです。生まれた家が農家ではなかった美甘さんは、それを少し羨ましく感じたそうです。

お米は、3軒で協力して作っていました。昔は、いろいろな作業を助け合っていましたが、きのこが生える場所だけは、それぞれが自分だけの秘密にしていたそうです。

保存食や手間のかかる料理について、お孫さんからは「おばあちゃん、作るより買った方が早いが」と言われるそうですが、「今はお金があれば何でも買えるけれど、何でも自分の手でできていた昔の人の知恵はすごいと思う」と幸子さんは言います。

お金があれば、本当に何でもできるのか? 昔の知恵の蓄積に、若い世代が触れる方法はないだろうか? さらに、農的生活に直接関わるのが難しい人はCSA(地域支援型農業)に参加するのが良いのか? など、グループのメンバー同士、今後の食と農のあり方についても話し合いました。

◆Cグループ:西山慶子さん(下鍛冶屋集落)

西山さんは、長年ご夫婦で農業を営む傍ら、「はっする母ちゃん工房」という中和の伝統食などを特産品として加工販売するグループのメンバーでもありました。

農業のメインは米づくりで、昔は、醤油以外のものはほとんどすべて自給していました。

今でも地域の方から山菜やきのこをもらった時には、自分でつくった野菜と交換し、たくさんいただいたものは、干したり、酢漬けにしたりして、余らぬように保存していると言います。

大きなビニールハウスの中には、岡山の特産品であるニューピオーネとシャインマスカットが育っていました。中和ではブドウの栽培は難しいと言われていましたが、今は暖かいので良く育つのだとか。ブドウは出荷用ではなく、家族や近所の方と食べるために作っているので、気楽に育てられるそうです。

庭先の畑には、夏野菜が収穫の時期を迎えていました。畝の間には刈った草を敷いて見映えよく防草されています。畑の辺りは小学生や地域の方々がよく歩いて通るので、目で楽しめるようにお花も植えていました。

一見、こんなに育てているんですか! と驚いてしまうほど、たくさんの野菜を育てている西山さんの畑でしたが、それは地域の方にお裾分けする思いやりある畑で、保存食など、食べ物を無駄にしない工夫に、西山さんの生き方を垣間見ることができました。

下鍛冶屋では現在、お米をつくっているのは、3軒だけだとのこと。自分でつくれなくなった田んぼは、外部に委託し、他の人が作るという時代になりました。中山間地域直接支払制度などのお話も聞き、国の支援や制度を活用しながら農業が成り立っているということも知ることができました。

〇「地域で農業を営む方とのディスカッション」

中和地区で農業を営む、山岡伸行さん(別所在住)と近藤亮一さん(浜子在住)をゲストにお迎えし、ディスカッションを行いました。

山岡さんは、地元生まれの地元育ち。高校卒業後、大阪で就職しましたが、家庭の事情もありUターンして、兼業農家になりました。家ではもともと1ヘクタールぐらい、お米を作っていて、子どもの頃から、農業を手伝っていたと言います。

現在は、耕作を辞める方から田んぼを借り受けるなどして、4ヘクタール弱の田んぼで、慣行農法でお米を作っています。3分の2は農協に出荷。残り3分の1は、自分で販路を開拓し、直販しています。

一方、近藤さんは数年前に中和に移住し、農業をはじめました。先に中和に移住していた高谷裕治さんご夫妻から2ヘクタールぐらいの農地を譲り受け、その後も、農地を手放すという方があり、現在、4ヘクタール半の田んぼで、自然栽培でお米をつくり、主にネットで販売を行っています。

また、2年前から平飼養鶏もはじめました。山岡さんからは屑米、スーパーからは魚のアラ、お豆腐屋さんからはオカラ、そのほか、野菜くずなどももらい、発酵させて餌にしているそうです。

聞き手:駒宮博男(副塾長) 中央:近藤亮一さん 右:山岡伸行さん

近藤さんは専業農家、山岡さんは兼業農家ですが、「農業は、生活を成り立たせるためのものなのか。あるいは自給のためのものなのか」という問いに対して、近藤さんは、「農業で生活が成り立ってはいるが、気持ちとしては『農』。自分たちが『食べたいものをつくる』という高谷さん夫妻の言葉に共感し、農業を続けている」と答えました。

一方、山岡さんは、「お米を販売し、生活の足しにはしているが、『自分で食べる米は、自分でつくるものだ』という感覚がある」と言います。また、「我が家の農地、地域の農地、そして風景を守っていきたい。先祖から受け継いだものを絶やしたり、荒らしてはいけないと思う」と答えました。

近藤さんは移住者ですが、「もともと地域で農業をしている方には、できるだけ続けてほしいという思いがある」と言います。中和も高齢化が進み、「あと2年で終わり」とか、「機械が壊れたら終わり」とおっしゃる方も多いそうです。「水田は、水路でつながっている。水路の管理は一人だけではできない。なので、人が減っていったときに、どこまで続けられるか」といった不安もあるそうです。

「これから先、どうなるだろうか」という問いに対して、山岡さんは、「自分が住んでいる集落には、同世代の仲間がいるので続けられると思うが、自分がやめるときに、子どもが農業を続けるかどうかはわからない」と言います。

近藤さんは、「先々のことを考えると、悲しい気持ちになりがちなので、考えないようにしています。自分ができるのは、今日、明日のことだけ。その結果、さらに耕作放棄地が増えるのか。あるいは自分のように農業をやりたいという人が来るか、わからない」と……。

この問いには、中和地域づくり委員会の大美康雄さんからも発言がありました。

「統計的なことから未来を判断しても、ニュースや情報をいくら探しても、あるいは日本全国一律に考えても仕方ないと私は思う。実は、『未来は変えられる』と思うことのほうが大切ではないか。たとえば、中和でも、10年ほど前に高谷さんご夫妻が移住し、自然栽培をはじめた。そのあと、近藤さん夫妻がやってきた。そして豆腐屋さん、ソバ屋さん、うなぎ屋さん、パン屋さんと、続々と移住者が増えてきた。当時、そんなことは誰も想像できなかった。『未来を変えられる』ということ、そして、未来を変えられる人を進んで受け入れることができる、そんな地域であり続けることが大切だと思う」

10年後、農家はさらに高齢化し、日本の農業は崩壊するのかもしれません。食料自給率もさらに悪化するのかもしれません。地球温暖化や気候変動により、自然災害が多発し、世界じゅうで飢饉が起こるのかもしれません。そうしたことを考えればきりがないし、悲しくなるけれども、だからこそ、それぞれが、それぞれの場所で、ただ、「成り行きの未来」を受け入れるのではなく、「意思ある未来」をつくり出すように行動することが大切だと、そんなことを考える講座でした。

次回は「地域の産業と暮らし」の第二弾。「森林とバイオマス」をテーマに講座を行います。

講義資料:食と農を考える