10月1日(土)~2日(日)に、第6期真庭なりわい塾の基礎講座を実施しました。今回の講座では、80代、90代のご高齢の方にグループごとに「聞き書き」し、その方の人生の歩みとあわせて、戦中、戦後の暮らしの変遷についてお話を聞きました。また、2日目は、真庭にI・Uターンした卒塾生に、塾に応募したきっかけや、その後の生き方、暮らし方の変化について話していただきました。
●講義「働くことは、生きること~聞き書き実習~」吉野奈保子
農山漁村で長年暮らしてきたご高齢の方に高校生が「聞き書き」する「聞き書き甲子園」という活動があります。戦前、戦中に生まれの世代の多くは、自給自足を基本とした暮らしを経験しています。働くことは、身体を動かすことが基本で、生きることと同義でした。
一方、高度経済成長期以後に生まれた世代は、各家庭でテレビや洗濯機、冷蔵庫を当たり前にもつようになり、モータリゼーションなども進み、便利な世の中を生きています。働くことは、いつの間にか、お金を稼ぐことになってしまいました。
今回の「聞き書き」では、中和地域で、自給自足を基本とした暮らしを営んできた80代、90代の方々の半生を、しっかりと聞いてみたいと思います。
「聞く」ことは、実は難しいことです。特に、大人はある程度、知識をもっているがゆえに、何でも「わかったつもり」になりがちです。あるいは、「それは知っています」とついつい口走ってしまいます。今日は、「わかったつもり」にはならずに、じっくりとお話を聞いてみてください。80年、90年生きてきた方の人生を丸ごと受け止める、そんな一日になればと思います。
●「聞き書き」の実践
Aグループ:實原周治さん(一の茅集落)
周治さんは昭和13年生まれ。ちょうど聞き書きの日が、84歳の誕生日でした。
昭和20年、終戦の年に小学校へ入学。子どもの時から、家の手伝いで山仕事をしていました。当時の燃料は全て木。「春樵(はるごり)」といって春先に木を切り、夏には「朝樵(あさごり)」といって枝の束を作ります。また「朝間(あさま)仕事」として、牛の餌の草を刈り、堆肥を運びました。
昭和29年に中学を卒業し、農業研修所に通った後は、家で稲作やタバコ栽培などを行いましたが、時代に応じて様々な挑戦をしています。もともと牛は農耕用に飼育していましたが、中和村にジャージー牛が導入されたことを機に、乳牛飼育に方向転換。しかし、割に合う仕事にならず、和牛の子牛が高値で取引される時代になると、和牛飼育に戻り、子牛を肥育しました。また、昭和30年代半ばから奥様と一緒に中和村の森林作業班の一員として道作りや測量、山の管理などを行いました。その後も、先先代から失敗続きだったワサビ生産を成功させたり、メロン栽培を始めたり、野菜苗を作ったりと様々な挑戦が続きました。
そんな實原さんですが、これまでの挑戦の数々を振り返ってみても、特に良かったとは思わないそうです。「後悔はないが、もっと楽な楽しみ方があったのでは」と笑顔で話されます。人間はどう生きていくかが課題であって、「生きていられりゃ細かいことにこだわらなくても良いと思う」とひょうひょうと話される様子が印象的でした。
Bグループ:實原芳子さん(一の茅集落)
芳子さんは、昭和7年生まれの90歳。隣村の八束村がふるさとです。
小学校に通っても、田畑の作業ばかり。また、学徒動員があり、八束の珪藻土工場で朝8時から夕方5時まで働いていました。何の仕事をしているのか詳しく教えてもらう機会はなく、友人らと珪藻土の使い道を面白おかしく想像しながら話していたのだとか。そうして過ごしているうちに、高等小学校2年で終戦を迎えました。
卒業後は、青年学校に通いました。学校の授業は裁縫がメイン。裁縫が出来ないとお嫁に行けないということで、女の子はみんな一生懸命に裁縫を習った時代でした。
18歳で結婚。お兄さんにお嫁さんを貰うために、先に芳子さんが嫁に出されたそうです。親同士が決めた結婚で、相手は一度も会ったことのない人でした。ひらけた土地で育った芳子さんは、一の茅集落に着いたときに、えらい山奥に来たなあ、と感じたそうです。
相手方は、兄弟がみな戦死してしまい、ご両親と息子さんの3人家族でした。当時、心に決めたことは、何があっても嫁ぎ先の家族とは溝を作らないようにすること。以来、お舅さんお姑さんの言われることには一度も反論せず、お二人が家で亡くなるその日まで一緒に暮らしてました。現在は、お孫さんに野菜を送ると、お礼の電話が入るのが一番楽しみなのだとか。控えめなお人柄で、慎ましやかな暮らしぶりを聞きながら、他人と家族になって暮らすための大切な心のあり方を学んだように感じました。
Cグループ:池田真治さん(真加子集落)
真治さんは、昭和4年生まれ。最近、誕生日を迎えて、93歳になりました。
集落は、河岸段丘の中央に家々が集まっています。日当たりがよく、本来は田んぼにするはずですが、昔は水に苦労して、稲作が難しかったのではないかとのこと。真治さんが生まれた当時は、稲作のほかタバコも栽培していました。畑は石がら(小石)が多く、備中葉の栽培に適していたそうです。小学校に入学したのは、日中戦争が始まった年。男の子はどうせ戦争に行くのだからと、勉強は二の次でした。そして高等科に進学すれば、もう一人前の扱いです。乾燥した葉タバコは、父親と一緒に一日がかりで湯原の集荷場まで運びました。
4つ上のお兄さんは、昭和18年に新潟の通信兵の学校に入学し、本来であれば2年のところ、1年早く卒業させられて戦地に送られたそうです。どこに連れて行かれたのかは、わかりませんでした。戦後、勝山のお寺に遺骨が届いて、父親と一緒に取りに行きましたが、遺骨の箱には石が入っているだけだったそうです。
戦後は、世の中が混乱し、米やタバコは闇で取引されました。その一時期だけが、農業が儲かった時代だと言います。そして昭和40年代になると、湯原に砕石場ができて、そこに勤めながら兼業農家を続けました。砕石場の仕事は危険で、何日も家に帰れないこともありましたが、「持ち前の器用さを生かして働いた、その頃が一番良かったと思う」と言います。体を動かし、せいいっぱい働きつづけた人生でした。
●録音したデータの書き起こし作業
インタビューを録音したデータはグループ全員で手分けし、書き起こしました。お昼にお話を聞いた内容を反芻しながら、黙々と作業します。6時半にスタートした作業は、夜9時過ぎまでかかりました。ほとんど書き起こしが終わったグループもあれば、若干作業が残ったグループもあります。「聞き書き」では、この書き起こししたデータをもとに、作品づくりを行います。
●2日目 聞き書き作品のまとめ方
翌日は、聞き書き作品のまとめ方について説明しました。話し手自身が、一人語りでご自身の人生について語るようなスタイルで作品をまとめます。話し手の語り口や方言も生かしながら、前後の文脈がわかるように整理していきます。
当日は、ワークシートを使いながら、文章整理の仕方について説明をしました。また、各グループのリーダーを決めて、今後の作業スケジュールについても相談しました。
できあがった作品は、話し手ご本人にも、その内容を確認いただき、冊子にまとめて、1月の最終講座で配布する予定です。
●パネルディスカッション「真庭なりわい塾を卒業して」
真庭なりわい塾の第1期(2016年-2017年)に参加し、真庭市にI・Uターンした4人の卒塾生に、塾に応募したきっかけや移住後の暮らしについてお話を聞きました。
中山真さんは、東京で作業療法士として働いていましたが、故郷である岡山県に帰郷。そのタイミングで、真庭なりわい塾に参加しました。塾をきっかけに木工に興味が湧き、1年間木工訓練校で学び、独立。現在は、中和地域に移住し、結婚。二人のお子さんを育てながら、同じく1期生の大岩功さんが代表をつとめる「はにわの森」で森林整備や製材、木工の仕事をしています。
自給用の野菜は以前から育てていますが、今年から米を作り始めました。都会に比べて家賃も安く、あくせく稼がなくていいのが良い、と中山さんは言います。今は借家ですが、いずれ家も自分で建てたいと思っているそうです。
山﨑清志さんは、大阪で暮らし、大企業に勤めていましたが、定年まで同じ会社に勤める気持ちはなく、早期退職して新たな生業に取り組みたいと考え、真庭なりわい塾に参加しました。当初は、日本蜜蜂の採蜜をしたいと考えていましたが、卒塾後、すぐに中和地域に移住し、地元の方の紹介で、りんご農家に転身。地域の人に助けられながら、りんごを栽培しています。
移住して農家になり変わったことは、休みがなくなったこと。会社勤めしていた頃と違って、曜日も日にちもわからなくなる。わかるのは、その日どんな作業をするかだけ。でも、人に決められたノルマはないし、上司や部下のような人間関係がないことが気楽で良いそうです。目標は、りんごの実を収穫し売るだけではなく、枝葉なども活用し、廃棄をゼロにすること。70歳までりんご農家を続けて、その後は、また新たな夢に取り組みたいと考えています。
門野由貴さんは、真庭市の北房地域の出身です。大学卒業後、京都の郵便局で働いているときに、真庭なりわい塾を知り、参加しました。卒塾後、真庭市にUターンすることを決意。市内のイベント会場等に移動式のバーを出店。自分と仲間とみんなの居場所づくりを目指しています。結婚後は、子育てをしながら、空き家を改修。さらに自分のお店を持つ夢に向かって、準備をすすめています。
高校時代は、「田舎には面白いことがない」というイメージを持っていたという門野さんですが、Uターンして考え方が変わったそうです。真庭市には、面白い人がたくさんいて、これはあの人に頼めばいい、あの人と組めばさらに仕事が面白くなると、親しい知り合いがどんどん増えて、都会とは違う人間関係に面白さを感じているそうです。
梶川蘭さんは、岡山市内で暮らし、保険の外交員をしていました。募集締切の直前に、真庭なりわい塾を知って参加。卒塾後も中和地域に通いながら、4年前に中和地域に移住しました。地域の特産品加工グループ「ハッスル母ちゃん工房」が、高齢化により事業継続が難しくなっていることを知り、その事業も継承。現在は集落支援員として地域活動やイベントのお手伝い等も積極的に行っています。
「今、仕事としてやっていることは、ここに暮らす人とのご縁でやっていることが多いんです」と話す梶川さん。仕事柄、全集落を周り、さまざまな世代と関わることが多い彼女は、自分も出会った人も幸せになるために働きたいと言います。行く先々では、たくさんのお裾分けをいただき、日々楽しく、たくましく生きています。
都会の暮らしは、どうしても「稼ぎ」が中心になってしまいがちですが、移住した3人は、「稼ぎ」と「つとめ」(地域の共同作業や行事など)と「暮らし」(家族との時間)が、ある程度バランスがとれて、今は、それが心地よいといいます。もちろん、田舎ならではの「煩わしさ」もあるでしょう。でも、その「煩わしさ」は同時に、「ありがたさ」でもあるようです。
中山さんは、塾に通う中で、自分がやりたいと思えることと出会い、移住しました。山崎さんは、もともとやりたいと思ったこととは違うことに、たまたまご縁を得て、今はその仕事にやりがいを感じています。門野さんは、「何をするか」よりも「どこで」「誰と」を先に考え、イメージし、Uターンすることを決意しました。梶川さんは、「何をするか」以前に「自分はどうありたいか」を考えて、「幸せをつくる」というキーワードをみつけました。
今回の講座では、中和地域で長年暮らしてきた80代、90代の方の人生も、改めてお聞きしました。塾生ひとりひとりが、自身の生き方や働き方と照らし合わせて、何を感じたのか。また、後半の講座の中で、それぞれの想いや考えを話しあう機会をもつことができればと思います。