第6期基礎講座「地域コミュニティとこれからの生き方・暮らし方」

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9月3日(土)~4日(日)に、第6期真庭なりわい塾の基礎講座を実施しました。今回の講座では、自治や集落に関する講義とあわせて、中和地域のそれぞれの集落で暮らす方や新たに移住した方によるパネルディスカッションなどを行い、地域と自治、これからの生き方、暮らし方について、改めて考えました。

●講義「地域自治の未来~自治力が決める地域の未来~」 駒宮博男(副塾長)

いま多くの人が望んでいることは、安心・安全な食とエネルギーの確保ではないでしょうか。「自給したい」とか、「買う」から「つくる」という発想の転換は、私たちの生活基盤について「自己決定したい」という願望の現れなのかもしれません。それが「自治」の基本です。

食やエネルギーなどのライフラインを自分で確保できると、自己決定権が広がります。でも一人ではできないこともたくさんあります。たとえば、田の水路管理は、一人ではできません。水路や道、山林など、共有財産を共同で管理することによってコミュニティの結束は強まります。

自治には「補完性の原則」といって、できるだけ小さい単位(個人や家庭、コミュニティ)で自治を行い、できないことだけをより大きな単位(市町村や都道府県、国、国際社会)で補完していこうという概念があります。自治の単位は、本来、民主主義が成立する範囲内であるべきです。その人数は概ね300人から3000人ぐらいまでと言われています。

日本の場合、自治の単位の基本は「自然村」で、かつては7万以上のムラがあったといわれています。ところが、明治時代になって「行政村」ができます。「行政村」は昭和、平成と合併を繰り返して、現在はその総数は1727となっています。つまり、日本の自治体数は急激に減少し、規模は急激に拡大したということです。現在の市町村の人口は平均7万人です。この人数で自治を行うのは難しく、規模が大きすぎます。ちなみにヨーロッパの自治体の平均人数は4000人弱で、日本が異常ともいえる中央集権国家であることがわかります。

かつての日本では、きちんと自治が機能していました。たとえば、岩手県大槌町吉里吉里では、昭和8年3月に大津波の被害があったときに、たった4か月余りで地域住民が主体となった復興計画を立案しています。また、岐阜県恵那市では、大正時代に村単位で小水力発電事業が行われていました。自治の再生にとって必要なことは、私たちの過去をみつめ直すこと、つまり「リバイバル」なのです。

駒宮博男 副塾長

●講義「小さな村の150年の軌跡」 大美康雄(中和地域づくり委員会委員長)

「中和」(ちゅうか)の由来は、儒教の経典「四書」の一つ『中庸』の一節、「中和を致して、天地位し、萬物育す」といわれています。その意味は、「人は、もともとは喜怒哀楽もなく偏ってはいない(中)。また、これらの感情が発しても、節度をもち偏りがなければ全てに適う(和)。「中和」を推し進めて極めれば、世界は安泰で、万物すべてが健全に育つ」という意味だと言います。明治10年(1877)に小学校が開校したときに、当時の校長先生が「中和小学校」と名付けたといわれています。明治22年(1889)に村ができましたが、小学校名がそのまま村の名前になりました。

戦前、戦後と時代が移り変わる中で、私たちの産業も暮らしも大きく変化しました。中和でもバブル期には観光振興や企業誘致に取り組んでいます。しかし1980年代をピークに中和の人口は減り、平成17年3月に近隣町村と合併し、旧中和村は真庭市になりました。

けれども中和地域では、かつての旧村(小学校区)単位の自治を今も大切にしています。津黒高原荘のボイラーに薪を供給する仕組みを地域住民が協働でつくりました。小学校の活動を支援するために中和いきいきサポーターズ倶楽部が発足し、中和小学校は真庭市で初めてのコミュニティ・スクールになりました。地域づくり委員会を中心に空き家調査を行い、移住定住促進にも取り組んでいます。人も地域も「時代の子」です。しかし私たちは「微力ではあるが、無力ではない」と思っています。

中和の歴史を語る大美康雄さん

●パネルディスカッション「コミュニティの中で生きる」

中和地域にある13集落のうち3集落(浜子/初和/下鍛冶屋)にお住まいの4名の方(大美康雄さん/由井堅史さん/鈴木浩幸さん/三船哲弘さん)にお越しいただき、それぞれのコミュニティの中でどのように暮らされているか、お話を伺いました。

お祭りや神事、清掃活動など、毎月のように行事の多い集落もあれば、数ヶ月に1度の集落もあります。多くの集落で共通して行われるのは春先の溝掃除(いでさらい)。集落によっては独自に新しく始めた行事もあります。

下鍛冶屋集落では、20〜50代の若手が中心となって地域を盛り上げていこうと、新たに「ふいごの会」を立ち上げました。同じ集落でも人とのつながりが薄くなる中、新たな移住者も増え、お互いに気軽に頼みごとができる関係になれたらいいとの想いで始まった活動で、月に1回サロン(交流会)を開いたり、農家でない方も共同で大豆を育てたり、独自に夏祭りを企画したりしています。

「ふいごの会」の三船哲弘さんと鈴木弘幸さん

このような集落ごとの動きの他に、地域全体の活動もあります。防災組織である「消防団」は、火事や災害、行方不明者の捜索など、地域で何かあったときに初動対応する、身近な防災を担当しています。また、社会福祉協議会は、社会福祉活動を推進するために行政が設置した組織です。少子高齢化が進む中、現在はデイサービスや訪問介護などが中心で、デマンド交通の導入に関する検討も始まっています。他にも、中和自主組織や中和地域づくり委員会、中和いきいきサポーターズ倶楽部(地域学校協働活動などを実践)などがあり、地域の課題を地域住民が主体となって解決することを目指しています。

社会福祉協議会事務局の由井堅史さん

●前期講座の振り返りワークショップ

初日の夜に、ワークショップを通して前期講座の振り返りを行いました。改めて、各自が塾への応募動機を振り返り、講座を通しての気づきや発見、自身の変化、今後の課題や夢などについて、3人1組でお互いにインタビューしました。2日目も引き続き、自分の想いを人に伝え、他の仲間の想いを聞くことを通して、これからの自分の生きかたや働きかたを考える時間になりました。

●パネルディスカッション「先輩に学ぶー私たちの生きかた・働きかたー」

2日目は、中和地域に移住した5名の方にお話を伺いました。

高橋祐次さん・玲奈さんは、7年前に東京から移住。都会での暮らしに漠然と疑問を感じていたお二人は、食べるものは自分たちで得たい、という気持ちを実践すべく移住。地域の方々に狩猟や稲作を習い、それらをナリワイにしています。

高橋さんは「都会で生きていくとお金がないと不安で、まず、お金をどうするかを考える。どう稼ぐかが、まずあって、それから生き方を考える。でも移住は、その逆。お金が欲しいから移住するのではなく、こういうふうに生きたい、を最初に考える。それから、どう稼ぐかが後からついてくる。商売にしようと思って仕事を始めたのではなく、暮らすのに必要だから狩りをし、米を育て、自分の家だけでは余るから、それを売る。暮らしの一部が仕事になっています」と語ります。また、地域の方から農業や狩猟を教わる中で、単に技術だけでなく、自然の循環の一部として生きているということを教わっているように感じているそうです。今後について聞かれると、「歳をとっても師匠のように狩猟を続けていたいし、若い人たちに猟師でも生きていけることを伝えたい」と祐次さん。玲奈さんは、恵みをいただく自然の循環を持続させるために、何か自分なりにできることはないかと考えているそうです。

上田善宗さんは、4年前にご家族で東京から移住。東京では、蕎麦屋を営んでいました。いずれ、故郷である福島に帰り、お店を出すことを考えていましたが、東日本大震災が発生。放射能の影響を考慮し、別の場所でお店を出そうと考えていました。そんな中、自然栽培に取り組んでいる高谷裕治さん、絵里香さん夫妻と知り合い、中和地域を訪れました。3年間通い、すべての四季を体験し、地域の雰囲気も知った頃、今住んでいる空き家に出会いました。そのタイミングで、東京のお店を閉め、移住。農業をしながら空き家を改修し、2年半後の今年、蕎麦屋をオープンさせました。蕎麦の生産もされています。

「やりたいことを実現させるために移住しました。東京にいた方が、もちろん稼げます。でも、これだけ稼ごうという目標設定をして、それを達成したときも嬉しくなかった。東京に比べれば稼ぎは少なくなり、子どもの教育費もあるので、お金の問題は常につきまとっているけど、今はやりたいことに挑戦できる」と上田さん。「蕎麦の栽培も手仕事でやりたいと思い、先日、コンバインを売った。手作業でどこまでできるか。それを体験できたらいいと思う。近所の方からは養蜂も学んでいる。蜜源となる植物も育てながら、農業に取り組みたい」と、今後について語られていました。

鈴木善宗さん(奥は高橋祐次さん・玲奈さんご夫妻)

樋田碧子さん・川上翔さんは、生まれたばかりの息子を連れ、2年前に大阪から移住。もともと知り合いだった、真庭なりわい塾1期生の大岩功さんの「はにわの森」に通い始めたことがきっかけで、移住することを決めました。今は、空き家を改修し始めたところで、山村留学やシェアハウスなど、自宅を開かれた家にしていく可能性を探っています。

「お金があれば、空き家の改修も簡単にできるし、田舎で必要な車や道具ももっと買えるなと思う。でも、お金がない分、手作りになるのが魅力」と翔さん。「中和への移住は、経済面より精神面を優先させた。都会で暮らすよりもお給料は減るが、自分で作ることによって生活コストは下がり、安心感も増した」と碧子さん。そんなお二人は、「5年後には、自分でナリワイを立てて暮らしていけたらいいなと思う。今、改修している空き家をたくさんの人が出入りできるような開かれた場にしたい。山の手入れもしたいし、動物も飼いたい」と考えているそうです。

川上翔さん・樋田碧子さんご夫妻

●講義「集落の暮らし・祭り」渋澤寿一(塾長)

人は一人で幸せになれると思いますか? 都会では一人だけでも暮らせると思えるのかもしれません。では、農村社会では、どうでしょうか。たとえば、以下の質問に、皆さんはどう答えますか。

  • 日々の感謝と願いごと(家内安全、商売繁盛等)、これはどちらも祈りでしょうか。
  • 自分は自然の一部でしょうか。それとも自然は相対するものでしょうか。
  • 自分は八百万の神の一員だと思いますか。それとも、神の国は別世界でしょうか。
  • 祈りと瞑想はどこが違いますか。
  • 「神」「宇宙」「自然」「真理」「愛」「ことわり」の連続性と同質性について、あなたはどう考えますか。

今の大学生に聞くと、半数は、自分は「自然の一部ではない」と答えます。「自分は八百万の神の一員か」という問いに対しては、キリスト教など一神教の考え方が入ってきていますから、「別世界だ」と答える人が増えています。

山形県飯豊町中津川の広河原集落に高橋さんというご夫妻が暮らしています。この集落はもともと40戸以上ありましたが、今は高橋さん一軒しか残っていません。家の屋根は茅で葺き、燃料は薪を使っています。毎年、スゲやガマを刈って、スゲ笠やガマ細工を作ります。食料はほとんど自給です。7月のいちばん暑い時期にはスギの植林地の下草刈りもしています。ご高齢なので、もう下草刈りはもうやめたほうがいいのではないかと言ったことがあります。植林をしても、息子や孫もここに戻って暮らすことはありません。それでも、高橋さんは下草刈りをやめようとはしません。「それは山に対する作法だから」と言い、毎日、「今日一日、生かしてくれてありがとう」と言って、神様に手を合わせます。山は、衣食住すべてを与えてくれます。それは、自分の身体の範囲といってもいいものです。ケガをしたら絆創膏をはるのと同じように、山の手入れをするのです。

秋田県秋田市には鵜養という集落があります。ここでは、4月8日に薬師さんの祭りがあり、湯立ての神事が行われます。当番は、田んぼの畦の土で神事のためのカマドを作ります。山の神と人が一体となって、その翌日から田植えはじめるのです。ところがある年から、当番がカマドを作らず、ガスコンロで湯を沸かすようになりました。直会では年寄りを中心に、これはおかしいと文句が出ました。そのときに、私、の隣に座っていた地元の人が、「農業のやり方も変わったからな」と言いました。かつては早朝の陽の光の中で、田んぼの辻に立ち、自分の目でその色の違いを確かめて、その日の作業を決めました。でも、今は有線放送で、今日は、害虫が発生しないように農薬を撒きましょう、といった指示が流れます。マニュアル通りにすれば、誰でも農業ができる時代になったのです。でも、かつては、自然と一体にならなければ農業はできないという時代が延々とありました。そのときには祭りは重要だったのです。昭和30年代頃から、有線放送がはじまり、化学肥料や農薬を当たり前のように使うようなり、僕たちはその感覚を持てなくなってしまったのです。

皆さんは、農村と都市と、どちらが先にできたと思いますか。もちろん、答えは農村です。農村ができてから、町ができた。農村からあぶれた人が、町に住むようになったのです。村に住む人数は、自然の質や量、そして、それが復元する時間によって規定されます。限られた自然の成長量の中で、人は持続可能に生きてきました。水田の広さは、森の広さが制限要因になります。田畑の5~8倍の森がないと、落ち葉や青草などの肥料が確保できません。農村の暮らしは自然資本によって成り立っているのです。

そして、自然は待ってくれません。田植えも稲刈りも、その時期にみんなで力を合わせなければできない。水路の管理や共有地の利用、漁や猟、屋根葺き、道普請など、年間に行う労働のうち、皆で共同やならければならない作業はたくさんありました。その土地の自然の中で、共に生きていこうとした人間の集まりが「村」です。ですから、農山村に移住する人は、地域コミュニティに対して、自然に対して心をひらく、暮らしをひらく覚悟が必要だと思います。農山村の暮らしは、ありがたく、温かいものかもしれませんが、一方で煩わしさもあります。都会の暮らしは、とても快適かもしれませんが、人の冷たさ、無関心を感じることが多いでしょう。

今も、コミュニティの結束力が強い、新潟県村上市の高根集落では、風の盆で行う奉納相撲が今も続いています。本気で戦って、勝ち抜いた優勝者は、村人全員をもてなすというしきたりがあります。優勝決定戦に勝ちあがっていくまでの間に、少なくとも2軒以上の家で、大量の料理の準備が行われます。でも、それは、無駄だからという考えで、やめたりはしません。近隣の集落でも、同様の祭りが行われてきました。でも多くの集落では「料理が無駄になるし、準備も大変だから人数分のお弁当を用意しよう」、「もう相撲はやめて直会だけにしてはどうか」といって祭りがなくなり、村の結束もなくなっていったのです。村の結束は、合理性や経済性、効率性、あるいは近代民主主義の外にある「関係性の密度」、いわば「暗黙知」の領域において、連綿と続いてきたものです。

同じ村上市に、奥三面という集落がありました。すでにダム建設によって沈んでしまった集落ですが、発掘調査により、旧石器から縄文時代を経て現代まで連綿と続いてきた集落であることがわかっています。縄文遺跡からは、小さな蓋つきの土器が、家の戸口に埋められていることが発見されました。ダム建設後のシンポジウムで、ある研究者は、これはアフリカの部族にも見られるような命の再生を願う儀礼ではないかといった趣旨の発表を行いました。すると、奥三面に暮らしていたお婆さんが「それは違う」と言いました。「私たちも亡くなった幼い子どもは戸口に埋めていた。それは子どもが寂しくないように、家族の声を聞かせてあげたいからだった」と言うのです。それを聞いたときに、私は、はっとさせられました。持続可能な社会の根底には「愛」や「慈しみ」という、普段、私たちが語ることのない、大切なものがあるのです。祖先、私、集落、子孫、そしてすべての生命は、多様でありながら一つにつながっています。そのことを身体と魂で感じる行為が「祭り」であり、魂で確認する行為が「祈り」だと、私は思います。

  1. 講義資料「地域自治の未来~自治力が決める地域の未来~」駒宮博男
  2. 講義資料「小さな村の150年の軌跡」大美康雄
  3. 講義資料「集落の暮らし・祭り」渋澤寿一