11月16日(土)~17日(日)に、第6回の基礎講座を実施しました。
今回の講座は、初日を公開講座とし、住民主体の自治をテーマに、中和地域の皆さんが、ここ数年取り組んできた地域活動についてお話を伺いました。また、2日目は、9月に行った地域のお年寄りの「聞き書き」の原稿確認を行うとともに、改めて中和地域の歴史や成り立ちについて学び、住民主体の自治とその可能性について考えました。
〈1日目〉
〇講義「“令和の寅さん”が歩いて見て聞いた! 地域自治のさまざまなカタチ」
小林和彦(元地域おこし協力隊サポートデスク元統括専門相談員)
高校時代に「桃太郎のその後」という物語を生徒同士話し合って作り、主役を演じました。桃太郎は鬼を退治し、宝ものを村に持ち帰りましたが、その後、「宝ものによって豊かになった村はどうなったのか」ということを皆で考えて、シナリオをつくりました。
赤鬼と青鬼は、宝ものがなくなり、自給自足で暮らすしかなくなったので、逆に体力がついて元気なり、子どもも生まれて、幸せに暮らしました。
一方、村人は働かなくなり、不幸が続きました。これはきっと宝もののせいだから、宝ものを鬼に返そうと村人たちは話し合いますが、鬼は「もう宝ものはいらない」という、そんなストーリーです。
幸せとは何か、豊かさと何かということを、そのときから考えるようになりました。
大学時代は「小野田自然塾」に通い、卒業後は、NICEという、国際ワークキャンプを行うNGOの事務局長になりました。アジアで孤児院を建設したり、あるいは国内の里山整備を行ったり、さまざまな活動に取り組みながら、若者を育てていく団体です。今も年間500人ぐらい、主に大学生を中心に国内外に派遣しています。卒業生の中には、日本の農山漁村地域に入り、その課題解決を担う人材が増えてきました。
次第に僕自身も地に足がついた生き方をしたいと思うようになり、熊本県菊池市で、廃校を活用した「きらり水源村」の立ち上げに携わりました。廃校活用は村が主導する事業だったので、僕は初めに地域のほとんどの家を飲み歩き、村の人たちが何を望んでいるのかを聞いてまわりました。その結果、村人を先生に、さまざまな体験プログラムが行うようになりました。日本人はもちろん、海外50か国以上から、たくさんの人が訪れる施設になり、地域内外の人の交流が続いています。
現在は、沖縄の国頭村で、「ヤンバルクイナ生態展示学習施設」の事務局長をしています。この施設がある安田という地区は、人口172人。菊池と比べると、4分の1という限られた人口の中で、いったい何ができるのかを考えたときに、ここでは、村全体というよりも各自の個性にあわせて、やれる人でやっていこうというやり方にしました。また、沖縄には伝統行事など、独特の風習があるので、その記録も丁寧にとるように心がけています。人口の規模に応じて、それぞれに応じた自治のあり方を模索できると実感しています。
〇紹介「中和いきいきプロジェクトの歩み」
大美康雄(中和地域づくり委員会委員長)/柴田加奈(リンエン代表)
中和地区には、少子高齢化がすすむ典型的な中山間地域です。しかし、ここ5年ぐらい前から、「中和を元気にしましょう」という動きが生まれてきました。はじめは「薪プロジェクト」。津黒高原荘の薪ボイラーに地域の里山から切りだした薪を供給する活動です。中和薪生産組合を結成し、一社アシタカの赤木直人さんが薪土場の管理を行っています。
この活動の立ち上げ当初に、住民全員に地域づくりに関するアンケートをとりました。驚いたことに8割近い方が「できることは協力したい」と言い、また、新たな移住者の受け入れについても8割の方が賛成でした。
現在、薪生産組合は、30代~80代までの14人で構成しています。中和小学校の子どもたちも、中和いきいき学習の一環として竹筒燃料をつくっています。
中和地域づくり委員会では、これからの目標を話し合いました。第一に「中和小学校は我々のシンボルだから、大切にしよう」ということ。また、「今ある資源を活かし、小さなことでもいいから、自分たちで稼ぎをつくる」こと。さらに、「多様なナリワイで、心豊かな暮らしを実現できる、魅力ある地域になろう」ということです。子どもから大人まで、地域に魅力を感じることができれば、いつかは地域を出た子どもたちも、戻ってくるだろうと考えました。
そして「薪プロジェクト」に続き、庭先野菜を道の駅に出荷する「中和いきいき新鮮隊」というプロジェクトが動きだし、さらに「真庭なりわい塾」が開講しました。「真庭なりわい塾」をやることになったときに、地域の人は、塾生たちと馴染んでくれるのかどうか心配だったのですが、その心配はまったく不要でした。
さらに、中和小学校のPTA世代の呼びかけで「中和いきいきサポーターズ倶楽部」ができ、さまざまな世代が、小学校の行事や授業を手伝うようになりました。
「真庭なりわい塾」1期生と協働で、空き家調査プロジェクトも動き出しました。調査した結果、地域内に60以上の空き家があることがわかり、うち20軒程度は、多少手直しすれば使えそうだということもわかり、さらに持ち主に意向調査を行ったところ、うち15軒は、貸したり、売ってもいいという返事をもらえました。
そして2期生の皆さんとは、空き家になっていた旧平岡商店を改修し、「えがお商店」をつくりました。「えがお商店」は、「中和いきいきサポーターズ倶楽部」の拠点であり、子どもたちの「寺子屋」、移住希望者の相談窓口、みんなの茶飲み場といったさまざまな機能をもっています。あわせて、中和に移住したいという人のための相談窓口も設けました。その結果、Iターン、Uターンが増えて、なんと14の空き家に明かりが灯りました。そして、今までは、空き家を貸したくない、手放したくないと言っていた人たちも、「手放していいよ」という雰囲気に変わってきたのです。
最近は、中和の活動や行事を紹介する「中和の暮らしカレンダー」というWebサイトもつくりました。そして「人」「活動」「ナリワイ」、これら一連をつなぐ活動を「つながりプロジェクト」と呼んでいます。なぜ、「つながり」なのかというと、中和小学校で、「中和いきいき学習」を行った中で、「中和には『ありがとう』というつながりがたくさんある」という子供たちの発表があったからです。
他の場所で、地域づくりの話を聞くと、たいてい僕らのような70代が中心で、若い人はなかなか関わらないと聞きます。でも、中和は、PTA世代や若いIターン者も含め、さまざまな世代ができることに取り組む、そんな地域になりつつあると感じています。
〇パネルディスカッション「中和の子どもたちと未来へ」
土肥真由美・三船哲弘・田中義昭・中村貴志・山岡伸行・津村 昌宏
・曲 修平
大美さんのお話を受けて、中和小学校のPTA世代の皆さんをパネラーに、地域おこし協力隊の大岩功さん(真庭なりわい塾1期生)が進行役となり、パネルディスカッションを行いました。
中和小学校はいわゆる小規模校で、児童数は現在30人弱。子どもたちは複式学級で学んでいます。「中和いきいき学習」では、1~2年生が「中和のお宝」をみつけ、3~4年生は「新聞記者」となって中和の魅力を発信し、5~6年生は「プロデューサー」として中和の元気にする活動を行っています。今年の5~6年生の活動テーマは「中和の10年後の未来を考える」でした。
子どもたちは、教室に地域の人を招いて話を聞き、あるいは、アンケートをとるなどして、中和の将来をみんなで考えました。たとえばアンケートの中には「中和のいいところは何か」という質問がありました。
パネラーのひとり、土肥真由美さんは「子どもたちは、中和にはいい人ばかりいる、と言ってくれます。また都会とは違って、自然を『五感』で感じながら暮らせるのが、中和の魅力ではないか」と話しました。観客席からは、真庭なりわい塾1期生の山崎清志さん(中和地区に移住)の発言がありました。「僕は塾をきっかけに第二の人生は中和で暮らすと決めて、中和のりんご農家を継ぎました。中和には、僕のような者に対しても挑戦させてくれたり、教えてくれたり、応援してくれる人がいる。その環境がすばらしいと思う」
中和の人口は、今後さらに減るだろうという悲観的な予測もあります。けれども教室では、子どもたちが「それでも中和には人が住みつづけると思う」「『冒険の森』もできたし、これからも働く場所が増える可能性はある」といった前向きな発言があり、大岩功さんは感動したそうです。
その話を受けて、パネラーの方々からは、「親世代は、青年部を中心に地域を盛り上げていこうという機運があった。いま、自分たちも地域のために何かしたいと考えている」「子どものために、できることから取り組みたい」「小学校の児童数は少ないけれども、今の学校は同じ学年同士の『横のつながり』だけではなく、学年を超えた『縦のつながり』があるので、その中で、子どもたちがいきいき育っていってほしいと願っている」といった発言が次々とありました。
一方、渋澤塾長からは「僕が住んでいる東京都世田谷区は、総人口が90万人を超え、子どもの数も増えつづけている。でも一方で、不登校や発達障害の子どもの割合も増えている。子どもたち一人ひとりに向き合うことができる中和は幸せだと思う」という発言がありました。また副塾長の駒宮博男さんからは、「東京オリンピックが終われば経済は悪化するだろうし、これからは大きな地震や災害が起こる可能性もある。いまの世の中は大転換期を迎えており、逆に中和は、将来の人口をあまり心配する必要はないかもしれない」といった発言もありました。
パネラーの皆さんからも「ポジティブシンキングが大切」「ふるさとに帰ってきたからには、逃げる場所もないので、決意をもって頑張りたい」「子どもたちが『~したい』と思えるきっかけを、親たちが作ってあげたいと思う」といった声が上がりました。
最後に大岩さんから「大阪から、ここに来てよかったと思うことは、こんな自分でも地域のお役に立てることが、何かしらあるのではないかと思えること。そんな実感をもてることが、自分自身の幸せや安心感につながっている」という発言がありました。
中和地区では、小学校PTAの皆さんの呼びかけで「中和いきいきサポーターズ倶楽部」ができ、地域全体で教育を支える取り組みが続いています。その実績も認められて、この春から中和小学校は「コミュニティスクール」になりました。これからも住民一人ひとりが、子どもたちの成長を見守り、さらに大人も子どもから刺激を受けて前向きに活動する、そんな地域であってほしいと思います。
〈2日目〉
〇講義「小さな村の140年の変遷-「豊かさ」と持続可能な共生社会を目指して-」
大美康雄(中和地域づくり委員会委員長)
中和地域には、初和、真加子、下和、吉田、別所の5つの大字(集落)がありますが、もともとこの5つあったムラが、1889年(明治22年)に一つになって「中和村」となりました。
1877年(明治10年)に、5つのムラの寺子屋を集めた「中和簡易小学校」ができていますから、「中和村」という名称は、そこからとったのでしょう。
「中和」とは、当時の校長先生が、儒教の経典「四書」(大学・中庸・論語・孟子)の一つ『中庸』の一節、“中和を致せば、天地位し、萬物育す”から名付けたといわれています。
簡単に言えば、「人は、もともとは喜怒哀楽もなく偏っていない(中)。これらの感情が発しても、節度をもち偏りがなければ全てに適う(和)。「中和」を推し進めて極めれば、世界は安泰で、人も物も皆その生を遂げることができる」という意味です。
1872年(明治5年)、中和の人口は774人でした。殖産興業の時代を背景に、人口は急増していきます。中和製材所ができ、炭焼きも盛んになりました。第二次世界大戦中は、初和に松根油工場ができました。戦後はジャージー牛を導入するなど、酪農業が盛んになります。
1960年(昭和35年)の人口は1480人です。しかし、高度経済成長期に入ると、若者が都市に流出するようになり、人口が減りはじめます。エネルギーも石油やガスに代わり、炭や薪の需要は激減しました。冬季は出稼ぎに出る人も増えました。
1970年代になると、蒜山大根の販売は1億円を突破し、縫製工場の誘致も行われました。さらに津黒高原荘がオープンし、観光振興の機運も高まります。村役場も新庁舎になり、第1回ふるさと祭り(現在の紅葉祭)も開催されました。
1980年代半ばには、「青少年かたりべハウス」ができます。村の産業振興と活性化のための協議会も発足。これが現在の自主組織や「中和いきいきサポーターズ倶楽部」の活動につながっています。中和村振興計画もできました。そのときのテーマが「住んでよい、豊かな兼業農家づくり」です。
ところがバブルが崩壊すると、観光振興では無理だということになりました。中和リゾート構想も凍結します。そして自立の道を模索するようになりました。住宅付きの農業体験施設をつくり、U・Iターン施策にも取り組みました。
ところが、国は、市町村合併に圧力をかけてきました。そして2005年(平成17年)に中和村を含む9町村が合併し、真庭市になりました。以後、昨日お話したとおり、改めて「中和を元気にしよう」という機運が高まり、さまざまなプロジェクトが動いています。一度はうまくいかなかったけれども、もう一度、チャレンジしようということです。
最後に、私自身の想いを添えます。
「人は時代の子」「足るを知る者は富む」そして、「一隅を照らす」。そうすれば、未来は必ずやってくるということです。
〇「聞き書き」の原稿確認
塾生は9月に、4つのグループに分かれて、中和のお年寄りの方々に「聞き書き」を行いました。今回、とりまとめた原稿を、「話し手」の方にお見して、確認する作業を行いました。聞き取れなかった言葉や、意味がよくわからなかった内容などを確認しました。大美康雄さんの講義による「中和の歴史」も踏まえて、伺ったお話の時代背景なども整理しました。
〇講義「地域自治の未来~自治力が決める中和の未来~」 駒宮博男(副塾長)
2日間にわたる講座の締めくくりとして、副塾長の駒宮博男さんに講義いただきました。
最初に、駒宮さんから「自治」という言葉を聞いて、どんなイメージを持ちますか、という質問がありました。塾生からは「自分たちのことを自分たちでやるということだと思うが、その気持ちは近年失われていると思う」「自助という言葉と似ているのではないか。住民同士が助け合うというイメージが強い」「大阪に住んでいると市町村単位の自治は、行政サービスであり、税金で買うものだと思いがち。サービスを受けることは当然だと思っている」「行政が担えない、手に届かないところを住民がやるということではないか」といった意見がありました。
駒宮さんによると、自治には「補完性の原則」があり、本来は「行政ができないことを住民がやる」のではなく、「住民ができないことを行政がやる」のが正しいといいます。
たとえば、コモンズと言って、地域の共有物は本来、地域住民が管理していました。田んぼの用水路や共有林などは、その典型です。食料もエネルギーも、ライフラインの確保も、あるいは教育や医療も、自分たちでできることは自分たちでやる。そして、できないことは、市町村や国に任せよう、あるいは国際社会に任せよう、ということです。
真庭なりわい塾では先月、「ツトメ」についても学んでいます。たとえば、駒宮さんが住む地域には「隣組」があり、かつては「上納常会」(※集金日を決めて公共料金等を集める仕組み)をやり、祭り当番はもちろん、冠婚葬祭も「隣組」が行っていたといいます。道路清掃、あるいは防災も、12軒からなる「隣組」が基本で、これが自治の最小単位です。その「隣組」が集まって、「自治会」とか「区」を組織していく。これがいわゆる地域コミュティです。
個人や家族だけではできないことを「コミュニティ」が補完する。国や市町村ができないことは「コミュニティ」が補完するというように、補完性の原則の中で「コミュニティ」が頂点にあることが理想だと駒宮さんは言います。でも、現代では、個人や家族のみならず、コミュニティも市町村を頼り、市町村は国を頼り、さらに国はアメリカを頼るというように、自治が失われてしまった状態です。
自治が失われた要因のひとつとして、日本の基礎自治体の規模がどんどん大きくなったことが考えられます。昭和、平成の大合併を経て、自治体数は1700余り。平均人口は7万3千人を超えています。明治、大正時代の自治体数は15000余り。平均人口は2500~4500人程度ですから、自治の規模は、その頃の方が適正だったかもしれません。ちなみにヨーロッパでは現在でも、基礎自治体の平均人口は4000人弱です。
駒宮さんいわく、自治の範囲は、地域の地形や歴史などにもよりますが、300人から3000人がちょうどいいと思うとのこと。
さらに自治が失われた要因として、「サラリーマン社会となって職住不一致になったこと」、「すべてをお金に頼る世の中になってしまったこと」も、大きいと言います。
「エネルギーの地産地消」「食の地産地消」「公共・公益サービスの地産地消」「自治を可能とする自主財源の構築」によって、自治を取り戻すことが必要です。「ひとりひとりが自治の『心地よさ』を感じながら、他人任せにしてきたことを、こつこつと取り戻していきましょう」という言葉で、講義は終わりました。
次回12月講座では、「経済と地域~自分でみつける『豊かさ』と『幸せ』の基準~」と題して、塾長、副塾長による総括講義を行います。また、1月の修了式と各自の発表に向けてワークショップや2年目実践講座の話し合いを行う予定です。