11月9、10日の基礎講座は、2つのテーマで開催しました。
初日は、地域が支える教育の可能性がテーマ。NPO法人グリーンウッド自然体験教育センターの代表理事である辻英之氏をお招きして、公開講座として開催しました。講演後には真庭市立中和小学校校長の木田訓祥氏、中和いきいきサポーターズ倶楽部の土肥真由美氏、真庭市地域おこし協力隊の大岩功氏をまじえたパネルディスカッションを行いました。
2日目は、地域の自治や「つとめ」(共同作業や祭礼・行事など)をテーマに、人と人、人と自然、世代と世代のつながりについて考えました。冒頭は、副塾長の駒宮博男氏が「地域にとって自治とは何か」について講義。続いて、地元の実行委員である大美康雄さん、土肥真由美さん、そして移住者の高橋祐次さんに、地域の「つとめ」についてお話を伺いました。最後は、塾長の渋澤寿一氏が「日本人の暮らしと祈り」について講義しました。
■講演「奇跡のむらの物語~1000人の子どもが限界集落を救う~」
NPO法人グリーンウッド自然体験教育センター 代表理事 辻英之氏
NPO法人グリーンウッド自然体験教育センターは、昭和61年に長野県泰阜村で山村留学をスタートさせました。当時は校内暴力や不登校などが問題となっていたこともあり、村の住民は外部の子どもたちを受け入れることに抵抗感がありました。また、NPO団体が教育分野を手掛ける例も少なく、スタッフたちもまた、住民の信頼を得るまでには長い時間がかかりました。しかし、泰阜村の魅力を子どもたちに伝え、それを住民とも共有、還元することにより、住民自身が村の良さに気づき、活動に協力するようになっていきました。
現在、「暮らしの学校 だいだらぼっち」(山村留学)では、全国各地の小学校4年生から中学2年生まで子どもたち、約20人を受け入れています。子どもたちは、1年間泰阜村で共同生活を送りながら、村の学校に通います。「だいだらぼっち」では、四季折々の自然を生かして、子どもたち自身の手で暮らしを作ることを大切にしています。安易に電化製品に頼らず、手作りを大切にする暮らしです。子どもたちは自分たちだけで話し合い、ルールを決めて生活します。ご飯を炊き、お風呂を沸かす薪は、地域の山を借りて、自分たちで間伐して調達します。子どもたちが間伐するというと、住民は喜んで山を提供してくれます。荒れた山はきれいになり、住民は喜びます。できた薪は次の年の子どもたちが使います。ガスや電気を使うことと比べて、時間も労力も何十倍もかかる作業ですが、みんなで幸せを共有できる大切な活動になっています。
ある年の募集説明会で、ある子どもがこんな発言をしました。「山村留学で楽しかったことはなんですか?」と問われて、彼は「薪割!」と答えました。次に、「一番大変だったことはなんですか?」と問われて、また「薪割!」と答えたのです。楽なことが楽しいのではなく、大変なことも楽しい。面倒くさいことも楽しい。彼は日々の暮らしの中でそのことを、自然や地域から教えられたのです。私たちは、思い通りにならない自然や不便さを楽しむことが、暮らしであり、自然体験だと捉えています。
村外の子どもたちと関わるようになって、村の住民たちの意識も大きく変わりました。ある住民は、子どもが村の自然や人の魅力に感動することを知って、改めて村の良さに気づきました。同時に自分の子どもにはそれを教えられなかったことを痛感し、「生まれ変わったら教師になりたい」と言いました。彼は今、子どもたちの大切な先生になっています。また、ある住民は、朝採れのきゅうりを子どもたちに提供したところ、「美味しくて丸かじりで食べられた」と野菜嫌いな子がお礼に来てくれたそうです。感動した彼女は、もっと安全で美味しいものを作ろうとやる気になり、さらに積極的に野菜を提供するようになりました。他にも村民の有志が新たなNPOや農家民宿を立ち上げるなど、住民自身が地域の未来を自ら考え、行動し始めています。
今、泰阜村では、山村留学の子どもたちと一緒に子ども時代を過ごした世代のUターンが増え、さらには10~20年前に山村留学した子どものIターンも増えています。また、短期・中期で開催する「信州の子ども山賊キャンプ」等のリーダーを務める学生も年々数が増え、毎年300人を超える大学生が泰阜村を訪れています。グリーンウッド自然体験教育センターの活動は、直接的な移住支援ではありません。しかし、子どもたちを対象とした活動を続けながら「ブーメランは強く投げるほど、帰ってくる。ちゃんと着地する」「10,000人の観光客より、100人のファン(関係人口)を作ることが重要だ」と感じています。
グリーンウッド自然体験教育センターのビジョン(目指す社会)は「あんじゃねな社会」(「あんじゃね」=「大丈夫だ」「安心しなさい」)の実現です。ミッション(使命)は「ひとねる」(=「育てる」「育つ」)こと。そして、アクションは「地域に根ざし、暮らしから学ぶ」ことです。こうした信念をもとに、30年という長い月日をかけてグリーンウッド自然体験教育センターがやってきたことが、「村の自立を教育で支える」ということでした。その成果が今、地域のさまざまな場所で芽吹き始めているのです。そして、次に考えている新たな夢は、泰阜村の子どもを違う地域の学校に交換留学させること。これは山村留学の受け入れとは異なり、それぞれの村の子どもの数は増えることはありませんが、お互いの地域の子どもたちにとって良い教育になると確信しています。
■パネルディスカッション「中和にも教育の新しい風が吹いている」
はじめに、真庭市立中和小学校校長の木田訓祥氏より、中和小学校の教育活動について、ご紹介いただきました。
中和小学校は、全校24名、職員10名の小規模校です。授業は完全複式となっており、2つの学年が一つの学級で学んでいます。
小規模校の良さの一つは、全員が主役となり、個々の活躍の場、認められる場がたくさんあるということです。教師も全員の進捗を確認することができ、個別の指導も可能です。学校行事では、本物の芸術や技術などを児童全員が同時に体験できます。また、学年をまたいだ縦割り班での活動が多いため、児童全員が学年や性別に関係なく仲良くなることができます。さらに、地域との結びつきが強く、校外学習、放課後活動、登下校の見守りなどを通じて、たくさんの住民と関わることができるのも中和小学校の強みです。
一方で、小規模校ならではのデメリットもあります。児童数が少ないため、友達の数も必然的に少なくなること。そして、人間関係が固定されるため、話さなくても本人の思いが伝わってしまい、自主性、自立性、コミュニケーション能力が育ちにくいという面があります。そして、豊かな自然があることが当たり前なので、それを大切にしようという気持ちに気づきにくいという面もあります。
そういった課題を解消していくため、中和小学校では平成27年度から「中和いきいき学習」を始めました。中和の人、自然、文化をテーマとした探究的な学習です。
低学年では「中和いきいき探検隊」として、地域の自然や人について調べたり、人に話を聞いて、自分が感じた驚きや不思議を伝え合います。中学年では「新聞記者」となり、中和の魅力を新聞にまとめて発信します。高学年では「プロデューサー」となり、地域の課題に対して自ら考え行動します。どの活動も、地域の人にお世話になりながら、子どもたちが自ら学ぶ環境を作っています。
そうした活動を下地に、中和小学校は来年度からコミュ二ティスクールへと移管します。「地域の子どもは地域で育てる」ことを大切に、学校と住民が一緒になって、子どもを育てる環境や教育内容について話し合い、決めていく学校です。子どもたち全員が主役である教育を推進し、また、子どもたちの姿が地域に元気を生み出すような中和スタイルの小学校になっていくことを期待しています。
つぎに、中和いきいきサポーターズ倶楽部代表の土肥真由美氏に、同倶楽部を結成した経緯と活動内容について紹介いただきました。
活動を始めようと思ったきっかけは、数年前の小学校と保育園合同の運動会でした。小規模校の運動会では、競技の準備も、競技の最中も、子どもたちと先生は動きっぱなしで休む暇もありません。子どもは友達を応援する暇もないのです。そんな状況を見た地域のおばあちゃんが「子どもたちがかわいそうじゃ」「てつどうたれや(手伝ってあげなさいよ)」と声をあげました。その言葉を聞いて、保護者や地域住民がもっと積極的に学校行事を手伝わなければならないと感じたのです。その後、有志6人が集まり、「できることをできるときに」をモットーに活動を始めました。保育園の園庭の草刈り、節分などの行事のお手伝い、小学校の家庭科のミシンの授業のサポート、中和いきいき学習のお手伝いなど、少しずつ活動の輪が広がり、はじめは6人だったメンバーも、32人に増えました。活動の参加頻度は人それぞれです。できる人ができることをやり、無理なく長く続けることが大切だと考えています。
今年度は、放課後や夏休みなどの長期休暇に「子どもの居場所がない」という課題に直面したことがきっかけで、空き家を改修し、コミュニティの小さな拠点をつくることにしました。そこは、小学校からも近く、地域の高齢者や子どもたちが自然と集まる商店でしたが、すでに廃業していました。運良く家主に快諾していただき、サポーターズ倶楽部のメンバーと真庭なりわい塾の塾生が合同で改修し、「えがお商店」と名づけてオープンすることができました。今年の夏には、早速「サマースクール」を実施しました。夏休みの宿題支援や子ども版のなりわい塾を行いました。12月には「ウィンタースクール」も実施する予定です。「えがお商店」は診療所にも程近く、診療日には地域のお年寄りたちも集ってきます。他にも移住者の受け入れや交流活動など、色々な分野の発信拠点になったらいいと思っています。この「えがお商店」に、様々な人たちが気軽に立ち寄り、交流しながら、互いに支えあい、見守りあう地域を目指していきたいと考えています。
事例紹介後のディスカッションでは、様々な質問や意見が活発に交わされました。澁澤塾長からは下記のようなコメントを頂きました。
地域づくりに関わっている立場から、地域の未来の考えるのは非常に難しいと感じます。現実とかけ離れた理想に振り回されて、足元が見えなくなることも多々あります。ですが、地域にとっては学校が現実的な地域の未来そのものです。教育は未来を見るチャンスだと言えると思います。子ども達が10年後、どう成長していて欲しいのか。どこで、どんな未来を生きていて欲しいのか。それを考えるのは本来、親であり、家族であり、地域の住民であったはずです。学校が子どもを育てるのではありません。税金を払えば、将来給料を稼ぐ子どもが自動的につくられていくのが学校だと、勘違いしている人がいるのが現状だと思います。そうではなく、地域の未来とあわせて、子どもたちにどんな教育が必要なのかを考えることが、大人の役目なのではないでしょうか。
■講義「地域にとって自治とは何か」 副塾長 駒宮博男氏
2日目は、「地域自治」をテーマとした講義からはじまりました。
昭和30年頃までの日本では、共同作業や冠婚葬祭、教育、福祉、医療、防災、エネルギーなどのあらゆることについて、数軒~数十軒ごとの集落、あるいは小学校区や旧村単位のコミュニティで話し合い、意思決定をしてきました。お互いに土地や労力を提供しあって町までの道路をひいたり、小さな村単位で電気会社を立ち上げたりすることは珍しくなく、住民自らが地域経営を行う「自治の力」を備えていました。そうした集合体が基礎自治体であり、県や国とも互いに役割を補完し合って自治を形成していたのです。ところが、現在の日本では、市町村の合併によって、中央集権の力が強くなり、地域の自治力は失われています。これらを元に戻すことは容易ではありません。さらに現代の日本には、人口減少や高齢化など、課題が山積しています。将来人口を予測し、移住定住を促進する施策など、地域自治や地域の活性化については、様々な専門技術や支援、取り組み等がありますが、それだけでは課題は解決されません。課題を抱える住民自身が「当事者意識」と地域に対する「誇り」を持って、自ら行動しなければ何も進まないからです。
中和地区では今、移住者の受け入れや活躍、中和小学校の「中和いきいき学習」等によって、地域に対する「誇り」を取り戻し始めています。また、中和いきいきサポーターズ倶楽部等の取り組みなどにより「当事者意識」も高まりつつあります。真庭なりわい塾も、中和地区の皆さんと一緒に地域の未来を考え、行動していきたいと思います。
■パネルディスカッション「コミュニティの中ではたらく、生きる」
はじめに、中和地区地域づくり委員会委員長であり副塾長でもある大美康雄氏と、実行委員の土肥真由美さんに、中和地区の「つとめ(役割、行事など)」について、教えていただきました。
中和地区は13集落(自治会)から成っており、それぞれの自治会に役員が配置されています。集落の代表である自治会長、コミィ二ティハウスを維持管理する館長、地域活性化の核となる中和地域づくり委員会に参画する委員、社会福祉協議会の活動を推進する福祉委員、老人クラブの世話役、中和神社の祭礼の世話役、寺の檀家代表です。
また、共同作業や祭りごとの種類と数は、集落によって異なっています。たとえば初和集落には、祭りごととして、どんど焼き、荒神祭、秋祭りがあります。清掃活動は、お堂掃除、コミュニティハウス掃除のほか、地区全体で行う「ヘルシーライフの日」(地区全体の清掃)、そして中和神社の清掃があります。農作業関係では、井戸さらえ、井手刈り、環境美化(草刈り)、農道修繕があります。
集落で一番、祭礼行事が多いのは、一ノ茅集落です。年に10種類を超える祭りごとを単独で行っています。その一方で、浜子集落のように単独の祭りごとはなく、周辺の3つの集落が集まって2つの祭りごとを行っている場合もあります。中和地区全体の行事としては、中和紅葉祭や中和ふるさと祭りがあります。
また、集落に関係なく就く役割もあります。消防団、民生委員、愛育委員、栄養委員、農業委員、地区社協、文化協会、交通安全協会、各種ボランティア団体などです。
地域の組織としては、中和小学校のPTAと学校運営協議会、中和保育園の保護者会、中和いきいきサポーターズ倶楽部、商工会、JAまにわ、各種営農組織、観光連盟、中和地域づくり委員会、中和紅葉祭実行委員会、中和ふるさと祭り実行委員会などがあります。
続いて、中和地区に移住して3年目となる高橋祐次さんに、移住者の視点で地域の「つとめ」とどう向き合っているのか、お話を伺いました。
私は下鍛冶屋に住んでいます。移住した当初は、まず、自治会長さんのお宅に伺い、「地域付き合いをします」という挨拶をしました。集落では、年に4つの大きな行事があって、まずはそこに参加しました。野焼き、荒神祭、どんと焼き、そして地区全体で行う「ヘルシーライフの日」です。移住前は、千葉と神奈川で暮らしたことがありますが、自治会にきちんと入ったことはありませんでした。実際やってみて、「つとめ」はすごく楽しいというわけではないですが、やっていくうちに、周辺の環境を意識的に見るようになりました。そして、小さいコミュニティだからこそ皆でやるんだと納得することができ、また責任も感じました。
農作業をやりながら、農地の周辺の水路掃除などもやっています。それをやりながら、思うことは、地域の人にとって、山や川は他人のものではなく、自分たちのものだということです。水路は自分たちの生活の中にある大切なもので、水路掃除は自分の部屋を掃除するのと一緒なんだと感じるようになりました。水路が傷んでいれば、もちろん、自分たちで直します。
消防団は、移住した年に団員の方から誘いがあって入りました。消防団では、ポンプ車の点検整備があったり、夜警をしたりします。行事は多くありませんが、一人暮らしの家の雪かきをお手伝いしたり、大雨のときは見回りをしたりと、年に数回は出動があります。
移住した下鍛冶屋集落は20数戸ありますが、家の並び順に自治会長が回ってきます。移住して3年目になった今年、自治会長が回ってきました。前年(2年目)は副会長でした。 自治会長は広報誌を配ったり、集金をしたりします。集落の家をまわるときには、なるべく玄関先に入って、顔を見るようにしています。はじめのころは、誰かわかってもらえず、驚かれることもありましたが、普段話せない人と話せるなど、自分から歩み寄れるチャンスだと思ってやっています。
■「日本人の暮らしと祈り・祭り」 塾長 渋澤寿一氏
最後は人と自然、世代と世代のつながりをテーマに、持続可能な社会について考える塾長の講義で締めくくりました。
山形県飯豊町の広河原集落は、かつては44戸もの家々から成っていましたが、今は最後の1戸だけになっています。そこには90歳近いおじいさんと、おばあさんが二人で暮らしています。家は茅葺屋根で、お風呂は薪で沸かします。1戸だけになって米をつくることはできなくなりましたが、ほとんどの食べものは山から採り、畑で作り、加工し、保存します。二人だけで自給自足に近い暮らしをしているのです。
おじいさんの暮らしは、朝3時に起きて、牛にやる草を刈り、田んぼを見て、水の量を調整することから始まりました。その後は、畑の草取りです。昼ごはんを食べたら、山に行って植樹地の下草刈りをします。これらは、一年で一番暑いときの作業です。夏にはスゲも刈り、秋には茅を刈ります。
おじいさんが植えた木が、材となって伐れるのは何十年も先です。子どもたちがおじいさんの後を継ぐことはありません。暑い中、苦労して草を刈っても、結局は無駄になってしまいます。ですが、おじいさんはやめません。
おじいさんの家の裏には「草木塔」があります。木や草を刈らせてもらうおかげで私たちは生かされている。だから、毎朝感謝して手を合わせます。山で草を刈り、植林をするのは、山で生きていく作法だからです。自分の損得は関係ありません。
かつての日本人は、自然の成長量を越えないように、持続的に自然の恵みを得てきました。自然を傷つけたときには、それが回復するように必ず手を施します。そのバランスと一体感、これが本来の日本人の、自然と一体となった祈りであり、生き方だと思います。
新潟県村上市の高根集落は、朝日連峰が連なる山間の集落です。170戸750人が暮らし、90町歩近い棚田を作っています。今も過疎にならないひとつの理由は、代替わりが早いことにあります。60歳を過ぎた人が、まだ息子に家督を譲らないと遅いといわれます。息子は20代から40代のうちに跡目を継ぐのです。
そんな集落には、村の中学生以上男性全員が参加する風の盆の奉納相撲が残っています。優勝者は、村人全員をもてなさなくてはならないというルールです。ベスト16辺りになってくると、16軒の家々では食事や飲み物の手配など、準備をし始めます。勝負がつくごとに段々と候補が絞られていきます。決勝戦の2人は、たくさんの村人をもてなすために家族や親せきが用意した料理が無駄にならないようにと、お互い真剣勝負そのものです。
他の集落では、食べ物が無駄になるから、公民館で食事を用意すればいいという意見が出ました。ですが、一旦公民館に変えてしまうと、相撲そのものが盛り上がらなくなります。相撲が先になくなります。公民館の宴会だけになると、そのうち宴会もなくなってしまいます。そうやって村の行事がどんどん減っていく。そうなった周りの集落は衰退していきました。経済性や合理性では説明ができません。集落全員が相撲の応援に参加するという人間関係の密度や一体感が、活気ある集落をつくっているのです。
新潟県村上市の三面川の最上流には、かつて奥三面という42戸の集落がありました。だダム建設により、2000年に湖底に沈んだ集落です。ダム完成前の埋蔵文化財調査では、ここに人が暮らしていた形跡が江戸時代、古墳時代、弥生時代と遡り、縄文時代(約1万2千~2千4百年前)、そして旧石器時代(約3万~1万3千年前)と、途切れることなく出てきました。ダムに沈むまで3万年もの間、人々が暮らし続けてきた地域であったことがわかったのです。
ダムが完成する直前には、3万年続いた人々の暮らしを検証するシンポジウムが開催されました。奥三面集落の対岸の“アチヤ平”には、縄文時代に約1500年間続いた20戸の竪穴住居群があったことが報告されました。その集落の各戸の住居の出入り口には、60~70㎝の寸胴の蓋の付いた土器が埋められおり、その土壌を分析したところ、99%の確率で人間の乳児が埋められていたといいます。それに対して人類学者は「死んだ乳児をまたぐことによって、生命が蘇りを願う風習のようなものが、かつての奥三面にあったのではないか」と発言しました。そのとき、会場から「それは違う」と声が上がりました。声を上げたのは、一人のおばあさんでした。東北地方のその年齢の女性が公の場で、しかも反対意見を言うということは珍しいことから、会場にいた全員が驚き、おばあさんの話に耳を傾けました。
かつての奥三面では、子どもが5歳まで育つのは稀でした。熱を出すと、病院がある村上の町まで、子どもを背負って山道を走りましたが、どんなに一生懸命走っても7~8時間はかかります。湯たんぽのように熱かった我が子が、だんだんと背中で冷たくなるということを、奥三面のほとんどの人が経験しました。そうして亡くなった子は、男たちが寝静まった頃に、女たちの手によって家の戸口に埋められたというのです。「なぜ、家の戸口に埋めたのか」と問われたおばあさんは、「亡くなった子が寂しいだろうから、家族の声が聞こえる戸口に埋めた」と答えました。ダムで沈んでしまう前に言っておかなければ、誰もわからなくなってしまう。その子たちが不憫だと思っておばあさんは声を上げたそうです。また、かつて三面集落には「42戸を超えたら生きていけないという掟」があり、せっかく生まれた赤子を自分の手で始末する(間引きする)こともあったと言います。そうした不条理を自ら受け止め、家族同士、集落に住む人同士、赦し合って、3万年もの間、同じ場所で生きてきたのが奥三面の人たちでした。
現代の競争社会では、持続可能な社会はつくれません。もう一度、優しさや愛、赦し、慈しみといった感情、そして自然に生かされているという感謝の気持ちを大切にしながら、共に生きるための幸せな社会とは何かを考えていかなくてはならないと思います。
12月は「経済と地域~自分でみつける豊かさと幸せの基準~」と題して講座を行います。
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