講座報告

第3期 基礎講座「森林とバイオマス」

2018年8月4~5日(土・日)に、第3期 真庭なりわい塾、第3回目の基礎講座を開催しました。

今回のテーマは、「地域の産業と暮らし~森林とバイオマス~」です。講義と映画鑑賞、パネルトーク、フィールド見学を行いました。

 

まず、「日本の森と人々の暮らし」について、渋澤寿一塾長(NPO  共存の森ネットワーク理事長)にお話しいただきました。

 

日本の国土面積に占める森林の割合は約66%で、世界有数の森林大国です。そのうち、約5割が、二次林を中心とした天然林、約4割がスギ、ヒノキなどの人工林、残りは無立木地や竹林などです。

 

これは奈良県の吉野地方にある250年生の人工林の写真です。この森をつくろうとした250年前に比べて、林業技術は格段に進歩しました。しかし、私たちはもう、この森をつくることはできません。250年生の森をつくるためには、子から孫へ、およそ7世代にわたって「この森を育てる」という意思をつないでいかなければならないからです。

一方で、日本の天然林(原生林はごくわずかで、ほとんどが二次林)の多様さは、異常とも言えるものです。北欧の森の場合、たとえば5種類の樹種を知っていれば、それで十分かもしれません。でも、日本の二次林には、何十種類もの多様な樹種があるのです。

日本に多様な森があるのは、氷河期に千島海峡が大陸と陸続きになり、日本海への寒流の流入が遮られたからです。南からの暖流だけが供給されるようになった日本海が、日本列島を温めました。同時に、大陸から移動してきた動物は、たくさんの植物の種子を日本に運び、それによって多様な森が形成されたのです。

日本の森の多くは、人間が一切、手を加えなければ、やがて常緑広葉樹の森に遷移します。しかし、人間が木を伐って利用すれば、低層の草木にも光が当たり、多様な植物が繁茂する森になります。人が手を加えることで植生遷移の途中段階の落葉広葉樹を中心とした森が形成され、維持されてきたのが、50年前までの日本の里山の姿です。明るく、植物の多様性があり、森の成長量が一番高い森です。

秋田県鵜養集落では、森を33箇所のエリアに分けて、順繰りに皆伐し、薪や炭などの燃料に利用してきました。皆伐すると、地面に日がよく当たり、翌春は山菜の宝庫になります。広葉樹の切り株からは新たな芽が育ち、成長します。数十年たてば、再び燃料として利用できる林に戻るのです。日本の多くの地域では、森を持続可能な形で利用するために、こうした知恵が受け継がれてきました。

しかし、現代の日本人は、森に手を入れなくなりました。燃料は、薪や炭から石油やガスに代わり、住宅を建てるための木材も、海外からの輸入に、その多くを頼っています。木を伐らなくなると、森に光が入らなくなり、多様性が失われます。森は、私たち人間の心をそのまま反映します。7世代にわたって「森を育てる」思いをつないだ吉野の250年生の人工林。一方で、利用されなくなって暗くなり、放置された二次林。私たちは、いったい後世に、どんな森を残していけるでしょうか。

 

講義の後、福島県田島町針生の木地師のドキュメンタリー映像「奥会津の木地師」(民族文化映像研究所製作)を鑑賞し、パネルトークを行いました。

パネルトークでは、澁澤寿一塾長、駒宮博男副塾長がコーディネート役を務め、中和地区に住む實原周治さんと、郷原漆器の木地師である高月国光さんをお招きして、お話を伺いました。

 

實原さんは、真庭市中和地区の一ノ茅集落に昭和13年生まれました。子どもの頃から山で遊び、中学を卒業すると、農閑期は山の作業の見習いをやりました。戦後の復興から昭和40年代にかけては、拡大造林政策により国や県の植林事業が盛んだったので、植林・除伐・枝打ちなど仕事をしていました。その後は、農業に従事しています。

一ノ茅集落に流れる植杉川には、集落の4キロ上流に少し平らな場所があり、そこには木地屋敷があったと伝えられています。1650年頃は、木地屋敷に15軒、130人程の人が住んでいたという記録があります。山に暮らし、田んぼを持たなかったため、天明の飢饉(1782年)の際にはお米を手に入れることができず、たくさんの木地師が亡くなったといいます。

元々この地域には個人所有の土地はなく、集落の共有林を毎年入札して、農閑期に炭を焼く生活をしていました。かつては、「たたら」によって産出する鉄とともに、製鉄に必要な木炭を供給する大産地でした。その他、鉄道用の枕木や紡績用の木管をつくる材も盛んに伐採し、皆伐に近いほど木材を出した時代もあったそうです。

採草地も集落単位で持っていました。戦前戦後は化学肥料もなく、採草地で草や灌木を刈り、牛の糞と混ぜて堆肥をつくり、田んぼに入れていたのです。当時の真庭郡の面積の60%程が採草地だったといいます。ですから、今の景色とは大違いでした。牛や馬の餌も採草地の草を刈って与えました。採草地以外にも、茅屋根の材料をとるカヤ場がありました。 そうした草地は、春に山焼きをしました。山焼きで、周囲が真っ黒になるのが、毎年の風景だったといいます。

中和地区の植林の歴史は、大正時代に、当時の村長が植林したのが最初だと言われています。それを戦後、伐採して売り、中和が潤ったという経験があります。植林が一番盛んだったのは、県に林業公社ができた昭和40年前後で、約400町歩の植林をしました。植林地の手入れは、村の現金収入にもなりました。その頃に植えた木は、今ちょうど50年生くらいに育ち、伐期に入っていますが、今の原木価格では、伐ると逆に損をしてしまうので手つかずの状態です。昔は、中和にも製材所がありましたが、今はありません。木はあっても、伐り出すことはできず、地域で製材することもできません。

 

高月さんは、倉敷市の出身で、伝統的な漆器の産地である石川県山中町(現・加賀市)修業した後、郷原漆器を継承する木地師になりました。郷原漆器は、生木のクリノキを使い、お椀をつくるのが特徴です。材料となるヤマグリの木、塗りの漆、下地の珪藻土はすべて、真庭市蒜山産を使っています。

一般の漆器は、芯を外して木取りをします。生木のまま加工すると卵型に変形するため、荒型の状態で乾燥してから加工するのが主流です。ですが、郷原漆器は生木のまま、漆器の中心が材の芯になるように加工します。ヤマグリを芯持ちで加工することで、変形や割れを防ぎ、木目も面白いお椀になります。30~40年生がお椀に加工しやすいです。

研修所には、女性の研修生が増えていますが、それは、この職業だけでは生計を立てられないことの裏返しでもあります。漆器の良さを広めるためには、実際に見て感じてもらう場を作ることが大切だと考えています。近々、開催する漆体験ツアーでは、真庭市産のクリ・漆・珪藻土を材料にお椀づくりを体験できます。

 

實原さんのお話にあった採草地やカヤ場は、今、鬱蒼とした暗い森になっています。それは、私たち日本人が、森を使わなくなったからにほかなりません。漆器も、昔はもっと身近な食器でした。ですが、私たちは漆器よりも、プラスチックや使い捨ての食器をたくさん使うようになりました。私たちの価値観が、森を遠い存在にし、漆器も敷居の高いものにしてしまったのです。

澁澤塾長からは、どんな形でも、とにかく木を伐利、使う機会を増やすことが重要だという話がありました。暮らしの便利さだけを追い求めるのではなく、もう一度、森の価値を見直すことが必要です。私たちが木材を使い、森に光を入れていくことが、森の再生の第一歩にもなるのです。

 

フィールドワークでは、一般社団法人アシタカの赤木直人さんから、津黒高原荘に設置された薪ボイラーへの薪供給の仕組みなど、中和の里山資源の活用についてお話を伺いました。また、津黒いきものふれあいの里の元館長である柴田加奈さんには、森を実際に歩きながら、さまざまな樹種や植物について教えていただきました。

 

最後に、渋澤寿一塾長から里山資本主義と呼ばれる真庭市の取り組みについて、ご紹介いただきました。

 

真庭市は、岡山県県北にあり、平成17年3月に町村合併して誕生した市です。東京23区の200分の1の人口が、1.3倍の面積に住んでいます。旭川に沿った出雲街道に宿場町が発展し、昔から人の往来が多かった場所です。旭川と、支流の新庄川が合流する勝山は、木材などの物資が集積する水運の要所であり、現在も久世・勝山を中心に製材所が多くあります。

1991年に岡山自動車道が開通し、交通は便利になりましたが、一方で、真庭を出て、岡山市内で働く若者が増えるのではないかという懸念も生まれました。その頃から市民を中心に、地域を活性化しようという動きが生まれました。製材業を中心にコンクリート会社、造り酒屋、医師など、さまざまな職業のメンバーが集まって「21世紀の真庭塾」というグループを結成したのです。そのメンバーが1997年にまとめたのが「真庭人の一日」です。これは当時から13年後の未来、2010年の真庭のある一日を描いたものです。

皆さんは、13年後の未来を想像することができますか。ひとつだけ確実なことがあります。それは、すべての人が13歳、年をとるということです。13年後に、あなたは何歳になっているでしょうか。そのときに家族はどうしているのか。どんな一日を過ごすのか。真庭塾のメンバーは、朝起きてから夜寝るまでの一日を、具体的に想像して物語をつくりました。

 

「西暦2010年、秋。

私は造り酒屋の均ちゃんですが、私の酒蔵では10年ほど前から、タンクを洗う洗剤に、環境負荷の低い砂糖を原料としたものを使っている。そんな私も今年60歳の大台になり、頭はもともと白かったが、最近ではすこーし耳も遠くなってきた。それでも真庭の川のせせらぎは、何故か鮮明に聞こえる。

そして毎年この季節になると、真庭の山や川、そして街角から、元気のいい子供たちのとっても楽しそうな声も聞こえてくる。それは小学生達の集団だ。(中略)

そんな子供たちに人気なのが冬季の温水プールである。それには地元の製材業の自家発電による電気と蒸気が使われている。これは木材の加工過程で出てくる、廃棄木材を再利用したもので、製材業は勿論のこと、現在では町役場や小学校をはじめ、一般の家庭も7割近くをこの電気で賄っている。木材から電気が生まれる。(以下、略)」

 

こうして、真庭の木材を生かした町づくり、産業づくりが具体的に動き始めました。その結果を2010年に検証したところ、ここに書かれている8割以上が実現していることがわかったのです。

未来の自分は、自分の中にあります。地域の未来も同じです。未来は、コンサルタントや大学の先生方に描いてもらうものではなく、自分たち自身で描くものなのです。真庭の人たちは、この「真庭人の一日」を実現するために試行錯誤をしました。その結果が、現在の里山資本主義と呼ばれる取り組みの礎になったのです。

当時、55年生のスギ、ヒノキは、1本700円でしか売れない時代になっていました。1年で育ち、1本100円で売れる大根と比較すると、愕然とする金額です。木材を伐って売りに出せば当然赤字ですし、手入れするにもお金がかかる。そのまま放置しても税金がかかりますし、山が荒れれば見苦しく、肩身の狭い思いをします。そんな負の遺産を子どもに負わせたくないというのが、当時の山主さんたちの思いでした。そこで、山の木が負の財産ではなく、地域の誇りになるようにと、真庭塾のメンバーは、あらゆることに挑戦しました。製材端材や樹皮などの木質バイオマスを様々に利用する方法を考えたのです。その一例がヒノキのおが粉を利用した猫砂です。

当時の日本では、猫は外で飼うのが普通でした。猫は肉食のため排泄物が臭く、家の中では飼えなかったのです。特に東京のマンションに住む人は、猫を飼いたくても飼うことができませんでした。それを可能にしたのが、ヒノキの消臭効果がある、この猫砂でした。東京のマンションに住む独身のOLが火付け役となり、猫砂は飛ぶように売れました。

コンクリート会社では、チップを混入させた新しいコンクリートを開発しました。製材所では、木材乾燥機にチップボイラーを導入。バイオマス発電にも取り組みました。

しかし製材所は、建材を製材して売るのが本来の仕事です。製材端材や樹皮などは、建材をつくる過程で生じます。いくらチップやおが粉として有効活用したいと思っても、製材所の経営自体がその時々の住宅需要や消費税率などによって大きく左右されるため、安定供給は難しい。そこで、メンバーが考え出したのは、製材端材や樹皮だけではなく、山に捨てられた林地残材や枝葉なども含め、あらゆる木質バイオマスを集積する基地を作ることでした。そうすれば、製材所の経営に左右されずに、木質バイオマスを安定供給できると考えたのです。

木材集積基地をつくって、最初に問題になったのが、取引価格の設定でした。木材を伐採し、搬出する人は高く売りたいし、その材を利用する人はできるだけ安く手に入れたいと、会議は紛糾しました。そこで、ヨーロッパの取引価格を参考に、1トン当たり3000円に設定しました。すると、1トン当たり6000円でなければ出せないと言っていた伐採業者が、すぐにトラック1杯3トン分の材を運んできてくれたのです。中身は風倒木でした。風倒木は建材として売ることができないので、山に野積みにしていたのです。彼は、風倒木であっても、ここに運べば多少の現金になると気づきました。負の遺産だった山の木に、再び価値が生まれたのです。

その後、さまざまな取り組みが進み、新たなバイオマス発電所も稼動。市内のエネルギー自給率は30%を超えました。つまり、化石燃料を買うために海外に流れていた約30億円のお金が、地域内で循環するようになったのです。真庭のすばらしいところは、バイオマス発電所をつくったことではなく、その燃料に海外のアブラヤシを使うのではなく、地域の製材端材や樹皮、林地残材、枝葉などを使っていることです。

木はかさばって、汚くて、重いものです。使うとなったら面倒なことがたくさんあります。その分、たくさんの人が関わらないと利用することができません。誰が伐って、誰が運んで、誰がどう利用するのか。それは、地域にとって、どんな価値になるのか。それを決めることが、地域の自治になります。特産品を作って外に売ることだけが地域活性化ではありません。海外に依存するエネルギーや食料はもちろん、医療や福祉、教育も自分たち自身で賄い、地域からお金が外に出ていかないようにすることも、それと同等の価値があるのです。

新たな産業をつくりながら、それに関わる人と人との関係性をつくり、自治を生み出したことが、21世紀の真庭塾の一番の成果でした。地域づくりは、行政職員や市議会議員がするものではなく、市民みんなが関わるものです。お金だけでは計れない、新たな価値を地域に見出すこと。そして、その価値を地域全体で共有していくことの大切さを、私は真庭から学びました。

 

 

次回の講座は、9月15、16日(土・日)です。中和地区のご高齢の方々に「聞き書き」し、その人生を受け止めるとともに、中和のかつての暮らしや歴史、人々の思いを学びます。