第9期基礎講座 入塾式/地域を歩く・見る・聞く

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第9期「基礎講座」を開講しました。初回の講座は、5月31日~6月1日(土・日)。今期は、岡山県内はもちろん、大阪や奈良か15名の塾生が参加し、真庭市北房(ほくぼう)地区をフィールドに活動します。

入塾式では、真庭市長の太田昇氏にご挨拶をいただきました。続いて、渋澤寿一塾長が、塾のガイダンスと地元学について講義し、3つの集落に分かれてフィールドワークを行いました。
夜は、お互いに自己紹介をし、入塾した動機や想いを共有。また、副塾長の坂本信広氏の案内で、備中川沿いのホタルを鑑賞しました。
2日目は、地元学で見たこと、聞いたことをグループごとに発表し、共有しました。

以下、当日の講義とフィールドワークの概要を紹介します。

◆主催者挨拶 真庭市長 太田昇氏
もう一度、人間の豊かさとか幸せとか、日本という国の在り方含め、考える時期かと思っています。日本の人口は、江戸時代から基本的にずっと増えてきました。ところが今、急激な人口減少に転じています。これは日本にとって初めてのことです。
しかもその人口は、海外と比較すると考えられないぐらい都市に集中しています。食料自給率は38%。さらに家畜の飼料はほとんど海外から輸入しています。エネルギー自給率は11%。しかも、この30年間で大規模地震が起こる確率は8割です。地震が起こったらどうなるか。一気に円安になり、食料もエネルギーも輸入できなくなるかもしれません。日本の将来は非常に不安定です。もっとバランスがとれた国を作っていかないと次世代に申し訳ないと思っています。人口減少の中、どうしたら安心、安全に暮らせるのか。それぞれの人が幸せを感じられるのか。個々の夢や希望はもちろん大切ですが、社会全体の在り方も、この塾を機会に考えていただければ幸いです。
真庭には、真庭ならではの良さがあります。特にこの北房は、古くから吉備文化と出雲文化が交わってきた場所であり、多様性を認め合ってきた地域です。よろしければ、この真庭に住んで、次の真庭を一緒につくる。皆さんには、そんな仲間になっていただければありがたいと思っています。

◆基調講演 塾長 渋澤寿一氏
「真庭なりわい塾の目指すもの」
私は、2002年から「聞き書き甲子園」という活動に携わってきました。農山漁村で暮らしてきたお爺さんやお婆さん(森、川、海の名人)を、高校生が訪ね、「聞き書き」する活動です。これまで2000人以上の高校生が参加し、1対1で、名人の人生の記録を残してきました。

この写真は、志田忠義さんという山形のマタギ(猟師)のお爺さんです。マタギのお爺さんなのだから、一年じゅう、狩りをするのかというと、そうではありません。志田さんが狩りをするのは、5月初旬の10日間ぐらいです。この時期は、山菜も採れますし、田植えの準備にも忙しい時期です。その後、夏野菜の定植があり、田の草取りがはじまります。そして、夏にはガマやスゲなど、生活に有用な草を刈り取ります。秋には、屋根葺き用のカヤを刈り、雪のシーズンになれば炭焼きをする。衣食住すべてをまかなうために、さまざまな仕事をしてきました。
志田さんは小学校しか出ていません。けれども、この生き方で満足している。「山さえあれば、安心だ」という。その話を聞いて、高校生はショックを受けます。高校生は両親から「大学に進学できなければ、いい企業に勤めることができない」と言われてきました。お金を得ることができなければ、いい暮らしはできないのです。お爺さんと高校生と、どちらが幸せでしょうか。そして、その価値観はいつから変わったのでしょうか。

日本は、高度経済成長期を境に大きく変わりました。私は70代なので、その前後を見ています。昔、母親は洗濯板を使って手で洗濯していました。冷蔵庫は氷で冷やしていました。ところが、1960年代には電気洗濯機が普及し、冷蔵庫も電気で冷やすようになりました。そしてカラーテレビが普及し、誰もが自家用車をもつ時代になりました。
農山村も大きく変わりました。田畑は牛ではなく、テーラーなどの機械で耕すようになり、山ではチェーンソーで木を伐るようになりました。都会は衣食住すべてをお金で賄う暮らしです。海外からの化石燃料や輸入品に頼りながら、空調の効いた部屋で過ごす。自分で作らなくても、食べるものには困りません。そういう暮らしを、世界じゅうの人が目指すようになりました。

これは、エコロジカル・フットプリントと言って、自然の成長量、つまり地球の利息を、人間がどれだけの割合、使っているのかを表している図です。かつては自然の成長量の半分ほどを人間が使っていましたが、1980年代以降、自然の成長量のすべて人間が使うようになり、それからは、いわば地球の元金を人間が食いつぶす時代になりました。世界じゅうの人が日本人と同じ暮らしをするためには、地球が3個必要になる計算です。本当に私たちは先進国なのか。人間は多くの資源を使い、CO2を排出し、環境を破壊している。それは、私たちがより豊かで、便利な暮らしを求め続けてきたからです。

お金は、確かに便利なツールです。ドルさえあれば、世界のどこでもモノが買えます。ところが、1990年代後半から、株や為替差益、債券などの「金融商品」が、バーチャルなマネーとしてやりとりされるようになりました。バーチャルなマネーは、インターネットを介してやりとりをし、雪だるまのように増えました。今では実体経済の70倍から100倍、いやそれ以上ともいわれています。汗水流して働かなくとも、コンピューターを使ってお金をやりとりすれば、どんどん裕福になる。その結果、世界の上位26人が、世界の人口の半分の総資産と同額の富を持つようになったのです。

世の中には、直進する時間と循環する時間があります。直進する時間は、右肩上がりで進む。科学は後退せず、産業も進歩すると思われています。この直進する時間に乗り遅れると生きていけないのではないかと、多くの人が思っています。今は小学生も英語やプログラミングも学ぶようになりました。それで本当に子どもたちは幸せなのか、不安になります。


もうひとつは、循環する時間です。朝昼夜、そして春夏秋冬、循環する時間です。循環する時間の中で、私たちの肉体は生きています。人間だけが直進する時間をもち、地球をおかしくしています。直進する時間の中では、私たちは、より効率的で豊かな暮らしを求めるようになりました。でも、それだけが人生の価値になったときに、私たちの肉体はどうなるでしょうか。一方、農山村には、循環する時間があります。循環する時間の中で、自分の身体を使って暮らしをつくる世界があります。両方の時間の中で、私たちはどうバランスをとるのか。そのことを、塾では考えてほしいと思います。

唯一の持続可能な社会は、先祖から続いてきた今の私たちです。私たちは最後のリングを持っています。それを確実に次の世代に渡さなければならないという宿命があります。もしも先祖が、自分さえ楽しければいい。自分だけ、今だけ、お金だけ……と考えていたとしたら、皆さんは確実にここには存在していません。私たちは、どんなリングを次の世代に渡すのか、考えてほしいと思います。

高度経済成長期に育った私の世代は、GDPを向上させるためにひたすら働いてきました。今の多くの政治家も経済が大切だと言います。その中で、育児や介護は重要な労働とはみなされませんでした。年収は高いほうがいいと、みんなが思ってきました。でも、この価値観は、戦後60年の価値観です。人類の歴史から見れば、ほんの一瞬のことです。
自分が生きる意味を改めて問い直してください。中には、コミュニティの中で必要とされるになりたい、という人もいるでしょう。必要最低限のものがあればいい、という人もいるでしょう。塾生同士、あるいは地域の人たちと一緒に問い直し、考えてみてください。

この塾で、確実にお土産として持って帰っていただけるのは人間関係だと思っています。
肩書や立場とは無関係に、ときには青臭い議論ができる人間関係。生きていくためのセカンドオピニオンをもらえる、そんな人間関係。それを皆さんには、持ち帰っていただきたいと思っています。

「地元学について」
これは東北の農村の風景です。この写真には、人は一人も写っていません。でも、人の営みは見ることができます。たとえば、この棚田を下から見上げると畦が見えます。この畦を押さえているのは雑草の根です。だから、ここに暮らす人は、除草剤は使わず、草を刈っていることがわかります。杉の林も見えます。ここで、刈り取った稲は、あの杉を上手に使って稲架掛け(はさがけ)をするのでしょう。里山の風景には、人間が関わらない風景はありません。意思をもつ人間が、この風景に関わっているのです。

「地元学」は、九州の水俣で生まれた言葉です。水俣は、海に面し、山を背負った小宇宙です。ところが、ここで水俣病が発生しました。最初は猫が転がって狂死しました。そして人間も、生まれたばかりの赤ちゃんも病気になりました。何かの祟りではないかという噂が広がりました。最初に病気が出たのは、水俣でとれた魚をよく食べる、漁民たちでした。水俣の中で、あっという間に漁民に対する差別が生まれました。そして、水俣の魚も、農産物も売れなくなり、縁談も断られるようになりました。チッソや国による補償は解決されても、差別はなかなか終わりません。

原告団の団長だった緒方正人さんは、「チッソは私であった」と言って、団長を辞めました。チッソは、塩化ビニールや農薬などの原料になるアセトアルデヒドを作っていました。無機水銀を使い、そのときにできるメチル水銀を海に流していまいました。それが水俣病の原因です。緒方さんは言いました。自分も農薬を使ってきた。ERP(グラスファイバー強化プラスチック)の船にも乗っている。そして、彼は有機農業をはじめるようになり、木の船で漁業をするようになりました。

「地元学」を生み出したのは、吉本哲郎さんという市の職員でした。彼は「地元学」を、「もやい直し」とも言いました。「もやい直し」とは、もともと「船と船、あるいは船と岸をロープでつなぎ直す」という意味です。
たとえば、水俣の水の経路は、上流から下流へと、すべてつながっています。誰かが加害者で、被害者なのではない。つながりをみつめ直し、コミュニティの絆を修復しようと考えたのです。

地域の人に話を聞きながら、景観を読み解く作業をしてみてください。どのような自然条件の中で、あるいは社会変化の中で、人は、どんな知恵をもって暮らしてきたのか。たとえば、高度経済成長期前後の変化を聞くといいかもしれません。東西に長い田んぼと、南北に長い田んぼでは、「光」が違います。産業、食べ物、家、道具、衣服、薬……新しいもの、古いもの、興味をもったものは、全部、聞きましょう。

◆Aグループ:阿口地区・杉集落
北房北部の標高400~500メートルの山間地にある阿口集落を、椙原啓二さん、黒田直人さん、椙原孝行さんにご案内いただきました。最初に見せていただいた場所は「大正田」です。「大正田」は大正5年から約10年かけて、それまで股まで沈むような湿田(くなた)だった場所を、乾田に改良した29町5反(29.5ha)あまりの水田です。甲子園球場約30個分の広大な場所を全工程人力で整えた大事業でした。水田への取水は幅2メートルほどの太田川です。阿口は、水の豊富なところで、竜王山からの湧き水は天水とも称され地底湖があるという想像を作り出したほどでした。現在「大正田」は、休耕田もちらほらあり、水田に残されたトラクター1台には、のどかさと同時にさみしさを感じました。

「大正田」から下ると阿口小学校のプール跡があり、防火水槽に準絶滅危惧種の「モリアオガエル」が生息していました。モリアオガエルは水中ではなく水面上に卵を産み付けます。そこから東に回り、高く聳え立った杉林を仰ぎながら登っていくと、山頂に「金倉神社」跡がありました。竜王山の麓にある鉱物資源豊かな金倉山では、昭和初期には千軒長屋が建つほど銅山操業が盛んで、その繁栄を願って「金倉神社」が祀られていたそうです。跡地の中央には昭和30年頃まで使っていた秋祭りの神輿の石組み台が残っていました。空が近く、山々の峰を一望できる場所から見下ろすと杉集落が一目に在ります。

「金倉神社」跡地の近くの道路前には、鉱山で採掘した鉱石を運んでおろす「荷下ろし」場がありました。現在は、この地を村人が整備し山菜を定植しています。4月から5月にかけてタラ、コシアブラ、ワラビなどを、みんな集まって収穫し、関西方面に出荷しているとのことでした。
平成30年から「昔ながらの人の集まる場所の再生」を目的に「杉さくらの杜育てて観る会」が設立されました。「荷下ろし場」の山菜エリアの真ん前に「さくらの杜」が作られたのです。桜の植樹をはじめて今年で6年目。200本の桜は種類も豊富で、ソメイヨシノ、陽光、カンザン、エドヒガンなどが育っています。「さくらの杜」の麓には、赤い屋根のログハウスがあります。これも村人の手作りで、山菜収穫や「さくらの杜」の整備するのときには、村人がわいわいと集まれる場所になっています。

杉集落を案内いただいた椙原啓二さんの祖父は、農業の傍ら養蚕も手掛け、年8回のサイクルで育てていました。十分な桑の葉を準備するため、かつては山の法面一帯に桑の木を植えていました。農業をしながらの養蚕は忙しく、昔はものすごく働いたことでしょう。歯を食いしばって生きてきた先人の暮らしぶりに感心しました。

私たちは100年先の「さくらの杜」を観ることはできませんが、穏やかでゆったりとした時間の流れの中、未来後世に生きる孫やひ孫、玄孫の時代にも語りつぐことのできる「阿口の遺産」を目にすることができて、ありがたく思いました。

◆Bグループ:上水田地区・井尾集落
実行委員の原一行さん、加戸義和さんのご案内のもと、北房の観光名所の一つでもある、毘沙門の滝から井尾集落を歩きはじめました。滝からあふれ出る水は井尾川に流れ、備中川、そして旭川に続いています。原さんが子どもの頃は、深さ2mにもなる毘沙門の滝壺に飛び込んで、子どもたちは遊んでいたそうです。

かつての井尾川は蛇行した川で、家々がそれを引き込んで野菜の洗い場として使い、また、水車も3つほど設置されていました。大雨が降ると、氾濫したため、平成7年、中国自動車道の工事に伴い、真っすぐに流れる川に整備しました。川沿いには田んぼが開かれています。おたまじゃくしやカブトエビを狙ってサギが飛んで来ます。この時期はホタルも飛び交う、豊かな田園風景です。

地域の長老のお一人である92歳の三好晋平さんのお宅にもお邪魔しました。家の2階では、昔は養蚕をしていました。戦時中の空襲に備えて、白壁を黒壁に塗り替えた歴史もあります。三好さんのお宅の前には、昔ながらの小川があります。コンクリートではなく石壁で護岸されているため、雑草も自然に生えて、たくさんのメダカが生活できる環境です。
三好さんは先日も、トラクターを自分で操縦して5反の広さの田植えをしたそうです。サツマイモやホウレン草などの野菜も育てています。背筋がまっすぐピンと伸びて、しっかりと話をされる姿には、塾生一同、惚れ惚れとししました。

井尾集落は、井尾上・下・奥と3つの自治会があります。戸数70軒のうち、33軒は空き家になっているそうです。
集落の中にあるお堂では、4月と9月に「お大師巡り」が行われます。「四国88か所巡り」を模して、北房地域内のお大師様を願掛けして巡る巡礼者を、集落の皆さんがお接待をするという行事です。以前は集落みんなで集まる機会も多く、地域の結束力も高かったようですが、コロナをきっかけに行事は減ったそうです。
一方、地域内には、グループホームもあり、そこに暮らす方々との交流も昔からあり、多様性を受け入れ、協力しあう雰囲気は今も強く残っています。

井尾地区には、かつては松茸が採れた共有林があります。時代とともに山が使われなくなり、数年前には山道で土砂崩れが起きたそうです。この集落に移住し、地元学に同行した小林建太さん(真庭なりわい塾5期生)は、この道を修繕する「道つくり」の活動を始めようとしています。地域の方も、彼の活動を歓迎し、応援している様子も伺えた集落歩きでした。

◆Cグループ:呰部地区・双内集落
きよとう農園から北へ備中川を遡っていくと、里山の裾野に東南に面した日当たりのいい家々が並んだ双内集落があります。副塾長の坂本信広さんに集落をご案内いただきました。現在、双内集落の戸数は21戸。双内はUターンして帰ってくる跡継ぎ世代も多く、子どもは3歳から18歳まで15人もいる賑やかな集落です。鎌倉時代から戦国時代にかけては、庄一族の領地で、目の前には高鶴部城跡があり、背後には、その家臣の佐宇地氏が城主である双内城がありました。その佐宇地というこの名前が、双内の地名の由来ではないかといわれています。
集落には公会堂があり、月に1回の常会が今も行われています。その向かいの太子堂は、お大師巡りをする巡礼者をもてなす場所です。

坂本さんの家を左手に見ながら、家々の間を上がっていくと、すぐに裏山に入ります。少し斜面を登ると、今も3軒が生活用水として使用する沢水の水源がありました。3つの簡易なろ過装置を通して、その上澄みをタンクに貯めながら利用しています。大雨が降ったりするとパイプに落ち葉や泥で詰まることもあるので、都度、見回りをして管理しなければなりません。かつては、坂本家でもこの沢水を風呂水として使用していたそうですが、現在は、上水道が通るようになり、畑の水やりなどに使う程度だそうです。でも、万が一、水不足で上水道が取水制限になり、あるいは、干ばつで田んぼの水が不足する場合も、この沢水があるので安心だとおっしゃっていました。一方、息子さんは、沢水はいらないと言っているそうです。管理が面倒だからやめてしまうのか、あるいは、暮らしの安心をとるのか。微妙な選択です。

裏山には、荒神様が祀られていました。かつて祈祷をせずに祠の近くの木を伐ろうとしたところ、梯子から人が落ちてケガをしたそうです。そんな恐ろしい神様ですが、村の氏神として、秋のお祭り、そして年越しにも集落の方はここに集うなど、大切に祀られています。

祠の一段下には、家々のお墓があり、目の前には、田んぼが開かれています。田んぼは家々がある場所よりも、平らで日当たりの良い場所です。最近、この田んぼを何枚か潰して、Uターンで戻った世代の家が新築されました。昔であれば、田んぼを潰すなど、考えられないことだったでしょう。


双内集落には、水の管理に、祭りや行事と、適度な自治が保たれており、人と人、世代と世代が緩やかにつながっています。従来の決まりを守るだけではなく、若者の意見もよく聞く雰囲気があるそうです。だからこそ、Uターン世代が帰ってきやすいのでしょうか。
時代の変化の中にありながら、風通し良く、集落が続いていくヒントが、ここにはあるような気がしました。

<渋澤塾長のコメント>
井尾集落は、毘沙門滝から流れる井尾川に沿った集落で、上流から下流までが、ひとつのまとまりである古い集落のカタチを残しています。双内集落も、里山とご先祖様と田んぼがワンセットになっている、伝統的な集落です。
ムラを歩くと、ムラはひとつの小宇宙であることがわかります。

私は、阿口集落を塾生と一緒に歩きましたが、阿口では、100年単位の歴史を感じることができました。かつては銅山が栄えて、現金収入がありましたが、それが衰退し、多くの人は町に出ていきました。残った人々は、ここで大正田を開拓しました。米づくりは生きていくために必要でした。膨大な労力と経費をかけていますが、村人はすべてボランティアで、人夫代は出ていません。一方で、現金収入も必要なので、蚕を飼うことにしました。私は東北地方で年に5回、蚕から繭をとっていたという話は聞いたことがありますが、年に8回という話を聞いたのは初めてです。それだけ苦労して生きてきた集落なのだと思います。そのムラが今、消えようとしています。

米をつくる場所はあります。でも、米をつくれない。都会の人たちは、米が高い、米がないと騒ぐ時代になりました。農業をするということは、人が植物の成長にあわせて生きていくということです。今度の日曜日にみんなでやろうと決めても、植物も天候も人の都合には合わせてくれません。
かつては、どの川も蛇行して流れていました。川の氾濫を制御するために、井尾川のような小さな川もまっすぐに整備され、コンクリートの三面張りに変わりました。人の都合で、風景は変わっていきます。

みなさんの中には、農山村に移住したいと考えている人もいるかもしれません。都会では、よい物件を探して、住むところを決めます。その基準は、便利さとか、快適さでしょう。農山村に住む場合には、集落の人間関係、あるいは人と自然の関係を見ながら、住む場所を考えると良いと思います。あなたは、これからどのように生きていきたいのか。それをよく考えてみてください。

次回の講座のテーマは、「農と食」です。高度経済成長期前後の農や食の変化を、改めて地域の人に聞きながら、私たちにとっての食や農について考えます。

講義資料 真庭なりわい塾の目指すもの&地元学