第3期 基礎講座「食と農」

2018年7月21~22日(土・日)に、第3期 真庭なりわい塾、第2回講座を開催しました。本講座では「地域の産業と暮らし~食と農~」と題し、座学と食と農に関する聞き取りを行いました。なお、今回は、西日本豪雨の復興支援活動等により、参加できない塾生が多く、半数程度の参加者での開催となりました。

 

はじめに、副塾長の駒宮博男氏(NPO法人 地域再生機構理事長)が講義を行いました。

(※講義資料はこの報告の最後に添付します。)

 

講義「食と農を考える」

 

まず、駒宮さん自身が、普段、自給している穀類や野菜の種類などについて紹介がありました。米、芋、大豆、梅などの果樹、季節に応じた野菜など、かなり多くを自給しています。普段食べる、それらの食と私たちの身体は密接につながっています。

マウスに放射性元素を含む食べものを与えた実験では、食べたものが、わずか3時間後に、しっぽの先まで到達しているということがわかります。生体は食べるという行為を通じて、常時、物質交換をしている。つまり、物質としての人間は、常に流動的なのです。

日本には「身土不二」という言葉があるように、食と自分の身体は区別できないという考え方がありました。日本人にとっては耕地も森林も、大地すべてが身体の一部ともいえるものとして意識されていましたが、現代人はそれらが乖離しています。

 

<和食に欠かせない米について>

和食は、ご飯と味噌汁、そして漬物が基本です。では、和食に欠かせない米は、どのように作られるのでしょうか。

現代のオーソドックスなやり方は、「多肥料」「多農薬」による米づくりです。そこから「進化」したものとして、「合鴨農法」や「レンゲ農法」等があります。また、肥料や農薬を与えない「自然農法」もあります。一方、「アメリカ式?」は、施肥や農薬散布などを機械化した農業といえるでしょう。

米づくりについて何も知らない人は、田植えと稲刈りさえすればいいと思うかもしれませんが、実際の米づくりには、たくさんの作業があります。中でも、除草は重要で、いかに除草するか、という観点から農法の違いが生まれてきました。

 

次に、米の反あたりの収量がどのくらい変化したか、という話題に移ります。これは、明治22年から平成20年の推移を表したグラフです。米の反収(1反=10aあたりの収量)は格段に伸びて、現在は、反あたり9俵程度になっています。

(※クリックすると画像が拡大表示されます。)

 

では、米の消費量はどのぐらいでしょうか。昭和30年代頃まで日本人は1人当たり一石(2.5俵)、つまり年間150kgのお米を食べていました。現在は1日1合程度ですから、年間に1人当たり1俵(60kg)ほどしか食べていない計算になります。

さらに、かつては半分以上(もしかしたら7割といってもいいかもしれません)が農家であり、米を作っていました。反当たりの収量は増え、一方で、農家の割合は5%にまで激減したのです。

 

<食と農の分離>

皆さんの中で、自分が食べるものを自分で作っている人は、どれぐらいいるでしょうか? かつては市場経済を介さず、家族内自給、地域内自給が基本でした。生産と消費は一体化していたのです。

私は、冒頭にお話したとおり、米を中心に、かなりの種類の野菜を作っていますが、魚、肉、油などは購入しています。なので、カロリーベースで自給率を計算すると50パーセント程度です。

食と農が分離した結果、自分の体が何からできているのかを実感することが少なくなりました。自然とのつながりが薄れてしまい、東洋的自然観も崩壊したのです。

 

<日本の食糧自給率>

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このグラフは、世界各国の食料自給率の推移を表しています。この一番下のラインが日本です。実はオーストラリア、カナダ、フランスなど、文明国といわれている国々は、自給率が高いです。一方、日本の食糧自給率は40パーセント前後です。

では、穀物自給率は、どうでしょうか。イギリスは100%を越えています。一方、日本は極端に低く、30%前後しかありません。日本は、高度経済成長期以後、自動車など工業製品を売る代わりに、穀類をはじめ食料を海外に依存するようになったのです。

国別の穀物輸入割合をみると、ほとんどがアメリカから輸入されていることがわかります。トウモロコシは、ほぼ家畜の飼料に使っています。日本は卵を自給していますが、鶏の餌は輸入しているので、結局、私たちは、アメリカの大地を食べているということになります。

鶏肉1kgに対して穀物2kg、豚肉1kgに対して穀物5kg、牛肉1kgに対して穀物8kgが必要だと言われています。

肉類と穀物、どちらを食べてもカロリーは同じですから、たんぱく質の摂取は非合理だと言えるでしょう。食糧危機の原因の一つは肉食の拡大なのです。

 

《命を頂くということ》

日本人の食生活が激変したのは、先ほども話した通り、この40~50年の間の出来事です。1965年、日本の食料自給率は73%でした。その多くを、米が占めていました。かつては肉体労働が中心だったので、カロリーを多く必要としていました。宮沢賢治は、「雨ニモマケズ」という詩の中で、「玄米4合ト味噌ト少シノ野菜ヲ食ベ」と書いていますが、これをカロリーベースに直すと2600カロリーにもなるのです。

現代は、米の消費に変わって、たんぱく質と脂肪、つまり畜産物や油脂の割合が多くなっています。

私たちが肉や魚を買うスーパーは、いわば「死体置き場」です。私たちは、死体の切り身を買う。命と対峙し、「命を頂く」という認識そのものが欠如する環境にあるのが、現代なのです。

 

《日本の農地だけでつくる献立とは》

米とパンの家計消費量(金額ベース)を見てみましょう。2009年に米とパンの消費量が逆転しています。さらに計算すると、現在は、一人あたり年間1万円分のパンを購入しているということがわかります。米をつくる農家も、朝ご飯にはパンを食べる家庭が増えています。そのパンを作るための小麦は、ほとんどが海外からの輸入であることは言うまでもありません。

では、現在の日本の農地で、日本人は何をどれだけ食べられるのでしょうか。ここに、その献立があります。朝食は、米、粉ふき芋、ぬか漬け。昼食は、焼き芋とふかし芋、果物。夕食は、米、焼き芋、焼き魚です。圧倒的に芋類中心の献立になります。皆さんは、これに耐えられますか?

(※クリックすると画像が拡大表示されます。)

 

現代の日本人は、中華料理、イタリア料理、フランス料理と、さまざまな種類の料理を食べています。このような贅沢な食生活をしているのは、世界じゅう見ても日本人だけではないでしょうか。それに慣れしまった私たちには、3食すべてが芋中心の献立には、とても耐えられないと思います。

 

<食と農の矛盾>

かつての日本は、基幹作物である「米・麦・大豆」を中心に栽培していました。米の裏作として大麦、大豆の裏作に小麦を作ってきたのです。

現在、米の生産者価格は1俵1万円前後です。これは反収10俵あったとしても、反当り10万円の収入にしかならないということです。

農業をビジネスとして考えると、基幹作物の栽培だけでは成り立たちません。結局は換金性の高い作物(野菜や果樹など)を作らないとビジネスにはならないのです。

ところで中和地区は、日本の産業構造では考えられないほど、一次産業に従事する人が多く、21%もいます。でも、それは、真庭市の農業従事者のグラフを見るとわかるように65歳以上の方が中心なのです。

日本では、高度経済成長期以後、一次産業が衰退し、二次産業、三次産業の人口がどんどん増えいきました。一次産業は「生きるための産業」。二次産業は「生活を豊かにする産業」。そして、三次産業は「半分は虚業だ」と、私は思っています。

ぜひ、今回の講座を機会に、一人ひとりが食と農について改めて考えてみてください。

 

食と農の聞き取り

講義終了後、塾生は3つのグループに分かれて、食と農の聞き取りを行いました。初和、荒井、別所の3つの集落で、昔の暮らしを知る、ご年配の方々にお話を伺いました。

中和地区は、古くからお米を自給していました。昔は行商の方が、塩サバや塩シイラを売りに来ていましたが、それをお金で買うのではなく、お米で代金を支払ったそうです。また、かつては川魚が豊富で、ハエ、アユ、天然ウナギ、ナマズのほか、地元ではハンザキと呼ぶ、オオサンショウウオも食卓に上がったそうです。山菜は、ゼンマイ、ワラビ、フキ、タケノコ、タキミズナ(ウワバミソウ)など。それを塩漬けや酢漬けなどにして保存していました。梅干し、干し柿、切干大根、干ししいたけ、白菜などの漬物も、各家でたくさん作りました。野菜の種は自家採取が基本でした。大豆や菜種からは油もとりました。大豆を搾った粕は、家畜の飼料にしたそうです。肉は、山で捕ったウサギ、タヌキ、ムジナなど。シカやイノシシは、昔はあまりいなかったそうです。どの家も鶏を飼い、卵をとりました。お盆やお正月には、その鶏をつぶし、豆腐をたくさんつくるのがご馳走だったそうです。豆腐のほか、味噌やコンニャク、家によっては醤油も自給していました。その他、こけら寿司(一口大の寿司飯に、塩サバや塩シイラを乗せて、笹の葉にひとつずつ並べ重ねた寿司)やヤキンボ(ヨモギにそば粉と米粉をまぜて、こねて焼いたもの)、ひっぱり餅という餅のつき方等、中和ならではの食の話を伺いました。こうかい茶というカラワケツメイを煎じたお茶の話、昔はネムノキの葉を石鹸がわりにしたこと等、初めて教わることもたくさんありました。

塾生からは、「昔は、食べ物を分け合うことが当たり前で、命を頂くという、食べることの本質を、日常の中で感じられる環境があった」という報告があり、また、「自然の変化によって川魚が少なくなり、バイカモ(梅花藻)がほとんど見られなくなる等、自然環境の変化が食生活に与える影響についても改めて考えさせられた」という感想もありました。

 

パネルディスカッション

発表後は、駒宮副塾長が聞き手となり、長年、有機農業を行っている三船進太郎さん、農家民宿を最近開業した池座みどりさん、中和にIターンし、自然栽培を実践する高谷裕治さん、農業と狩猟に取り組んでいる高橋祐次さんの4人から、お話を伺いました。

三船さんは60代。中和に生まれ、一時期、大阪でサラリーマンをしていましたが33歳のときにUターンし、鶏を飼うことからスタート。有機農業のベテランです。高度経済成長期だった当時、大阪は水も空気も汚かった。何とかそこから脱出して、きれいなところに住みたい。その場所が故郷、中和だったと言います。今では、養鶏のほか、約10町歩の水田を近隣の農家から借りて、米を中心に大豆やソバなどを作っています。

 

きれいな水を求めて、中和にたどり着いたのは、高谷裕治さんも同じです。中和に移り住んで7年になる高谷さんご夫妻は、お二人とも関東の出身。福島原発事故を境に、蒜山に移住することを考え、中和に出会ったといいます。もともとは畑で野菜をつくるつもりでしたが、中和は水田に適した土地が多いため、米づくりに挑戦することを決意。ご夫妻で、餅などの加工品の販売にも取り組み、納屋をリノベーションした農家レストランも開業しています。

 

高橋祐次さんが中和と出会ったのも、偶然でした。東京でテニスのガット張りの仕事をしていた高橋さんは、ご夫妻とも、スーパーで売っている野菜はしなびている、そもそも誰がつくっていのかわからないと疑問を抱くようになり、ならば、自分たちで作ろうと、田舎に住むことを決意し、4年前に中和に移住しました。スーパーに並んでいる肉にも疑問を持ち、狩猟をやりたいと考えました。今では食肉処理場もつくり、捕ったシカやイノシシをレストランに卸しています。

 

池座みどりさんは、もともと中和の出身で、津山に住んでいましたが、お母様がご高齢になったことをきっかけに、地元に戻ることを決意。農家民宿を営んでいます。地元の皆さんが口コミで広めるなど、サポートをしてくださったおかげで、いつの間にか宿を利用するお客さんも増えたと言います。提供する食事は郷土料理が主体、山菜やキノコなど、山のもの。かつては行商の方が海の魚も運んできたので、海のもの。さらには自分でつくった野菜を中心に献立を考えています。

 

4人の共通項は、この土地の山や水、自然の恵みを大切に考えていること。また、はじめからビジネスモデルがあって、どれだけ稼ごうと計算して始めたわけではなく、地域の人や土地との出会いによって、農や食に関わる仕事をはじめたことです。

「食べることは生きることにつながる」「中和には土地の魅力があり、さらに人も魅力がある」「あきらめずに、こつこつと積み重ねることが大切」「やってみて、はじめてわかることがある」といった前向きなメッセージが、それぞれの方からありました。また、三船さんからは、「農業の後継者は、残念ながらどんどん減っている。意欲ある若い農業者を育てることが、これからの自分の役割」といったお話もありました。

移住した高谷さんも、高橋さんも、農業の大先輩である三船さんには、さまざまな形でお世話になっています。私たちはとかく頭でっかちになり、考えてばかりですが、まずは地域に飛び込んでみるという勇気と行動力が大切なのかもしれません。

 

おわりに

今回、食と農の聞き取りでは、別所の中谷政司さん、中谷喜美江さん、荒井の荒尾常子さん、曾根田君江さん、初和の美甘美幸さん、美甘英子さん、美甘陸美さんにお世話になりました。ありがとうございました。

次回の講座は、8月4~5日(土・日)「地域の産業と暮らし~森林とバイオマス~」です。

 

《講義資料》

講義1)

食と農を考える①

食と農を考える②