第6回 「コミュニティの原点を学ぶ~人と人、人と自然、世代と世代をつなぐ~」

2016年10月8~10日(土・日・月祝)に、真庭なりわい塾第6回講座を実施しました。本講座から後期カリキュラムの開始です。

前期は「地域をみつめ、地域に学ぶ」として、農山村の暮らしや産業、歴史、文化を、地域の方々から直接学び、地域で生きること、働くことの意味を改めて考えました。後期は「これからの社会と暮らしを考える」として、地域の自治、教育、医療、福祉、経済などについて学び、これからの社会のあり方と私たち自身の生き方、働き方を考えます。

 

○10月8日(土)自治に関する講義とパネルディスカッション

 

本講座は、「コミュニティの原点を学ぶ~人と人、人と自然、世代と世代をつなぐ~」と題し、地域の共同作業や祭礼行事を切り口に、自治のあり方について考える2泊3日のプログラムを実施しました。初日は、駒宮副塾長の講義から始まりました。

 

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■講義「地域コミュニティと自治」

駒宮博男(副塾長、NPO法人地域再生機構理事長)

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駒宮さん講義

 

<地域組織と「務め」>

私が住んでいる地域には、自治会や消防団、PTAなど、住民主体の様々な組織があり、「務め」があります。その分野は、総務系/教育系/農林系/商工系/環境系/社寺関係等、多岐にわたります。地域に住むと、これらの役割の多くを経験することになります。これを煩わしいと感じるか、地域を支えているために必要だと感じるかが重要なポイントです。

「務め」を具体的に見てみましょう。私の集落は、いくつかの隣組(班)に分かれており、班ごとに「務め」があります。

○上納常会:毎月1回(現在は年3回)、各戸から代表が集まり、税金等の集金を行います。このような集まりが定期的にあると地域で何が起こっているかが、ほとんどわかります。

○祭り:祭りは、地区全体の祭りの他に集落単位の祭りがあり、祭りの当番がまわってきます。お祭りの後は、みな集まって焚き火をし、熱燗で直会(なおらい)をします。

○冠婚葬祭:たとえば、誰かが亡くなると、すぐに連絡網が回ってきて、各家から2人が手伝いに出ます。喪主は遺族ですが、葬式を主催するのは班の役目で、埋葬許可証なども班の人が取りに行き、料理の準備も班で行います。誰かが入院したら見舞いに行き、退院したらお祝いします。

○贈与経済:これは「務め」ではありませんが、地域には贈与の経済があります。たとえば、今の時期であれば、突然、家の玄関に栗が置いてあったりします。「ミョウガを採りに来い」というので行くと、バケツ2杯分を分けてもらえたりします。大変な経済価値です。こういうことが頻繁にあります。

○その他:道路清掃は共同でします。防災の取り組みも班でやっています。何かあると必ずかけつけてくれる人がいる。これは重要なポイントです。

こういったことを、たった12軒の班で毎年やっています。

 

<自治の基本は、補完性の原則>

自治の「補完性の原則」とは、社会の様々な機能を小規模な組織単位(たとえば班や自治会単位)で担い、できない部分は、次の大きな規模の組織(たとえば区や市町村単位)で補完するということです。ところが日本の現状は、図に表したように「逆補完性」になっています。これは中央集権になっているということです。「逆補完性」になると、地域は均一化し、個性がなくなります。「補完性の原則」を保てば、地域の多様性を保てるわけです。この「逆補完性」の状態を変えていかない限り、地域の自治は成り立ちません。

さらに、この図は、社会の何を誰が担うべきか。規模や対象による「相互補完性」を表した図です。たとえば、教育の場合、初等教育を担う主体は、国(文科省)ではなく、コミュニティか基礎礎自治体であるべきだと、私は思います。医療、福祉、環境なども、コミュニティや市町村・都道府県が中核となるべきでしょう。自治を取り戻すためには、「コミュニティ・レベルで何ができるか」を見直すことが重要です。

<自治を失った歴史をふり返る>

中央集権化した日本でも、昭和30年頃までは、自治はコミュニティが主体でした。では一体、いつ、どういうタイミングで自治は失われたのでしょうか。

日本は基本的に「自然村」で出来ており、明治中期までは7万以上の村がありました。「自然村」とは「生活の場となる共同体」であり、「生きるために必要な資源がワンセット揃っている」状態でした。明治以降、日本は、ずっと合併を進めてきました。現在の基礎自治体の数は約1700です。合併は、行政の都合で進みました。合併が加速したのは昭和30年頃のことで、それ以前は7000ほどあった自治体が1500ほどに激減しています。

日本の歴史を振り返ると、大正の終わりから昭和の初め頃までが、最も民主的な自治が成り立っていたのではないかと感じます。たとえば、岩手県大槌町吉里吉里(旧吉里吉里村)では、昭和8年の大津波の災害後、わずか4ヶ月で住民が復興計画を立てています。「復興委員名簿」には、祖父や曾祖父にあたる世代の方の名前が載っています。つい80年前はきちんと自治が出来ていたという証です。

また、江戸時代は一般に封建的だったといわれますが、この頃にも民主主義や地域自治はありました。特に若い人たちのグループが力をもち、村長の命令に対峙することもあったようです。

 

<エネルギー自治は昔からあった>

エネルギーも、昭和30年頃までは、地域の自治が原則でした。岐阜県恵那市では、実業家が巨大なダム式水力発電所をつくった一方で、村単位の自治でつくられた「三郷電力」がありました。市史には、「三郷村の十数戸が集まって水車に発電機を付け、電力事業を開始した。村議会が全戸送電を計画し、即座に電柱や電線の必要数と予算をはじき出した。そして村の送電会社として『三郷電力」を立ち上げた」と書かれています。

こういった大正末期~昭和初期の電力事業からわかることは、発想から実現までの意思決定が早いことです。これはとても重要なことです。今、意思決定が遅いのは自治がないからです。中央集権の場合、国や県への確認や手続きに膨大な時間がかかります。時間がかかると当然、コストもかかります。つまり地域の問題解決には自治が不可欠だということです。

 

<自治における一次生活圏の重要性と人口の規模観>

藤山浩氏(島根県中山間地域研究センター研究統括監)は、コミュニティ単位の自治を考える場合、昭和の旧村(公民館区・旧小学校区)~旧市町村(中学校区)に該当する「一次生活圏」を中心に考えるべきだと言います。そして、その場合、300人から3000人という人口の規模観が重要だと言います。それは、まさに現在の真庭市中和地区の範囲(中和小学校区/旧中和村)で、これぐらいの規模が適切な自治の単位だろうということです。

 

<人口デザインをどう考えるか>

皆さんは、増田寛也氏(元総務相)の「消滅可能性都市」という言葉を聞いたことがありますか。増田氏は、都市への人口集中により地方は消滅するという「増田モデル」を提示しました。それに対して、藤山氏は、地方は消滅せず、人口が定常化するという「藤山モデル」を示しました。2つの考え方に則って、ある地域の将来人口を予測すると、全く異なる結果になります。そもそもデータの取り方が根本的に異なるためです。

人口減少の問題は地方と都市では事情が異なります。地方では、昭和40年代から過疎の課題があり、さらに今、集落は成り立たなくなるのではないか、という危機感があります。一方、都市部では、急速な高齢化は福祉対策などの課題として捉えられています。

人口問題を解決するには、地域(集落)単位で将来人口をデザインすることが重要です。人口減少が必ずしも悪いわけではなく、各世代が均等な人数であるような地域社会が理想型(持続可能型)です。そのような理想の人口構成にするためには、どうすればよいか。その戦略を整理した藤山さんの図です。上段が各地区(定住自治区)でやること、下段が基礎自治体(市町村行政)でやることです。主体はあくまでも地域(自治区)です。地域が計画を立てて数値目標を決め、実際に動く。行政の役割は集計・分析や地域の動きを支援すること大切です。

<自治の復活に向けて~地域経済1%取り戻し戦略~>

食料や化石燃料を外部から購入している場合、地域経済は穴のあいたバケツのようなものです。家計の支出のうち、外部に依存しているものを、地域内で得られるように内部化していくと、地域経済の循環を取り戻すことができます。具体的には、エネルギーや食料、公益サービス等を自治により地産地消で行うようにすることです。

 

<技術より気持ちの醸成が先~まず潜在的自治力の覚醒を~>

地域課題を解決するために「技術論」ばかりが先行することは、よくあることです。しかし技術(システム)だけでは絶対に人間は動きません。重要なのは「気持ち」です。対策としての仕組みやシステムを持ち込む前に、住民の「当事者意識」(潜在的自治力の覚醒)や「誇りの醸成」(自己肯定感)を優先しないと、自治の復活はうまくいきません。そのために、よそ者や若者の力を借りて「地元学」や「聞き書き」に取組むことは有効です。

自治を阻む要素には、「必要以上の中央集権化」「産業構造の変化による職住不一致」「その結果として行政中心の地域政策の蔓延」などが挙げられます。このあたりが解消されると自治が復活し、いい地域になるのではないかと思います。

<真庭なりわい塾のミッション~地域に根ざした新たな価値を創造する~>

真庭なりわい塾では、塾生一人ひとりが地域に根ざし、新たな価値観を創造することを目指しています。一方、地域に対しては、自治の推進(地域創成)をお手伝いすることがミッションです。後期講座では、塾生の皆さんに、地域のためには何をお手伝いできるか、また、地域経済に何を取り戻していけばよいのか、といったことを一緒に考えていただきたいと思っています。

小田切徳実氏(明治大学農学部教授)は、自治を成立させる主要課題は「主体形成」(危機感ではなく当事者意識)であり、これからは『暮らしの新しいものさし』を作らなければならないといっています。つまり、暮らしをめぐる独自の価値観を自ら再構築して、潜在的な自治力を再生することが課題だということです。

グローバル経済は今、大変な局面にあります。我々にとって残された数少ない選択肢のひとつが「地域」です。地域自治の復活や再生には、長いおつきあいが必要となります。そういったことを念頭におきながら、真庭なりわい塾は、ここ中和で、真の意味での豊かさや幸せ、持続可能社会について考えていきたいと思います。

 

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■パネルディスカッション/グループワーク

「コミュニティの中ではたらく、生きる」

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中和地区には13の集落があり、集落単位で自治があります。そのうち4つの集落から、大美康雄さん(浜子)、実原俊春さん(一の茅)、山岡伸行さん(別所)、高谷絵里香さん(荒井)をお招きし、自治や「務め」についてお話を伺いました。月ごとに共同作業や祭礼行事がどのように営まれているのかを伺ったところ、集落によってかなり違いがあることがわかりました。

たとえば、自治会の寄り合いは、年に数回しか行わない集落もあれば、月に一度の集金日を設けて全戸が集まり、情報共有を行うことが恒例となっている集落もありました。

また、中和には、集落ごとの氏神様のお祭りやお日待ち、代満(しろみて)、どんど焼きといった農山村ならではの祭礼行事が今も受け継がれていますが、それも集落ごとに濃淡があります。ほぼ昔どおり、毎月のように祭礼行事を行っている集落もあれば、今は、ほとんど行っていないという集落もあります。

 

中和地区全体のお祭りや行事には、中和神社の例大祭、ふるさと祭り(夏祭り)、紅葉祭(農村文化祭)があります。また、6月初旬には「ヘルシーライフの日」という共同作業の日が設けられており、河川や道路の清掃、草刈等が行われています。

社寺の総代や祭り当番、自治会役員等はいずれも輪番で決められます。世帯数が少ない集落では毎年何かしらの役がまわってくることになります。荒井集落にIターンした高谷さん夫妻も、移住後3年目に祭り当番をやることになりました。高谷絵里香さんに「祭り当番を煩わしいと思いませんでしたか」と質問すると、「私は都会育ちで、地域のお祭りや行事に多少憧れも感じていたので、あまり苦には思いませんでした。むしろ集落の一員に加えてもらったと感じました」という答えが返ってきました。

 

その後グループワークで、塾生各自が住んでいる地域の「組織」や「務め」について話し合いました。特に、都市部に住む塾生からは、以下のようなコメントがありました。

・私の住む地域にも自治会はありますが、ゴミ集積所の管理しかしていません。

・自治会費を納めず、入会するのを拒否する人もいます。

・地縁というよりも、活動するテーマごとにNPO的な組織があります。

・地域の祭りはありません。地域がひとつになる機会がないのは少し寂しく感じます。

 

最後に駒宮副塾長からコメントがありました。

「都会の場合、地域に生産財・公共財はほとんどありません。一方、農山村には、共有林や農地、水路などが生産財・公共財があるので、それを管理するための自治が必ず必要になります。それが農山村と都会の根本的な違いです。都会は『人だけ』の集まりであるのに対し、農山村は『自然と人』とが一体となり、さらに『祖先』とのつながりもあります。人と人、人と自然、世代と世代のつながりが今も残っているのが、農山村の特徴です」

 

○10月9日(日)行事・祭礼に関する講義/中和神社の例大祭の見学

 

毎年10月9日は、中和神社の例大祭が行われます。午前中は、夏に行った「聞き書き」を作品としてまとめるための確認作業を行い、午後からお祭りを見学させていただきました。そして前後に、塾長、副塾長による講義を行いました。

 

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■「聞き書き」作品をまとめる

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8月に実施した地域の年配者への「聞き書き」をまとめるにあたり、ご本人に内容を確認してもらうため、グループごとに「話し手」の方のご自宅を再訪しました。「友達になったしるしに」と「話し手」のお婆さんから手作りのお土産を頂いたグループもありました。

駒宮副塾長からは、「皆さんは、『聞き書き』を通して新たな発見がたくさんあったと思います。一方、『話し手』となった地域の方も、話をしてみて改めて『当たり前』だと思っていたことの価値に気づくことがあったのではないでしょうか。こういったことを繰り返し、地域の皆さんとの信頼関係を築いていくことが重要です」とコメントをいただきました。続いて、「祈りと祭り、宗教」をテーマに講義いただきました。

 

 

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■究極の地域活動~祈りと祭り、宗教~

駒宮博男(副塾長、NPO法人地域再生機構理事長)

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<日本人と宗教観>

日本には、さまざまな宗教あります。「八百万の神」という言葉がありますが、岩や山、水などの自然物をご神体とする自然宗教がベースにあり、その他にも様々な宗教がゆるやかに併存しています。各地でよく見られるのは、「神仏習合」といって神様と仏様が一緒に祀られている形態です。山岳信仰は修験道と結びつきました。これは日本人の登山の源流ともいえるでしょう。

日本人が古くからもっていた観念として、「ハレとケ」や「穢れと清め」などがあります。また、気候や自然災害など人間がコントロールしきれないものに対しては祈らなければ仕方がない。これが日本人の自然に対する「畏敬の念」となり、神の観念と結びつきます。仏教にも様々な宗派があります。また、新興宗教も多く存在します。つまり日本人にとっての宗教観は非常に多様で、基本的には「何でもあり」だということです。さらには「祟り」「憑依」「輪廻転生」といった他界感・精神世界観とも混ざり合っています。

一方、世界を見てみると、キリスト教やイスラム教のような一神教が圧倒的に多く、何らかの宗教に属して、何かを信仰しているのが普通です。「宗教は何ですか」と問われて、「無宗教」だと答える人が多い日本人は、世界ではかなりマイナーな存在です。

 

<宗教の根本は同じなのか>

井筒俊彦氏は、西洋哲学・東洋哲学・イスラム哲学・禅の研究などを修めた哲学者ですが、氏によると、世界の宗教は相似的な要素があって、根本までいくと本質は同じだといいます。易経や曼荼羅の構造は数学的にも説明がつく共通要素があるといいます。氏はまた、東洋思想では「存在の本質は関係生にあり、それは時々刻々を変わる」というのが東洋的存在論で、西洋における存在論の考え方とは対極的だということも指摘しています。平山朝治氏は、宗教哲学には「第1議諦(根本諦)」と「第2議諦(世俗諦)」があり、あらゆる宗教において根本原理(根本諦)は同じだが、経典等として表記言語化したもの(文化、世俗諦)になるとそれぞれが異なると整理しています。

 

<祈りと現代人~日本人はモラルの源泉をどこに求めるのか>

「祈り」の本質は、コントロール不能なものにどう対処するかということです。たとえば、雨乞いや鎮魂などの祈りにより大自然や他界とのつながろうとする、というように、日本人は人間がコントロールしきれないものに対して「祈り」で対応しようとしてきました。しかし、現代人は自然から離れ「身体性」の認識が薄れてしまったために、自然への畏敬の念を失い、祈りからも遠ざかっています。

日本では、人・地域の自然・祖霊・八百万の神などが、すべて合わさって、ひとつのコミュニティとして捉えられており、これらのつながりや関係性の中でモラルが形成されてきました。しかし、近代化により人間は自然から離れ、このような基本構造が破壊されてしまいました。

日本人はモラルの源泉をどこに求めるのか。人と自然・祖霊・八百万の神々が一体となり、コミュニティの中で伝えられてきたモラルを、いま一度見直す契機となるのが、「暗黙知」を掘り起こす「地元学」や「聞き書き」という作業なのかもしれません。

<祭りは、人と人、人と自然、世代間の関係性を整える行為>

日本は戦後、精神世界を社会的に封じ込めてしまいました。都会の祭りの多くは、祭祀や共同の慰労の機会としての祭りから、イベントに変質しています。田舎にはまだ昔ながらの地域の祭りが残っており、中和にも様々な祭りがあります。祭りは集落の人々の心をまとめる行為であり、定期的に、人と人、人と自然、世代間の関係性を思い出させ、整える行為でもあります。今日はこの後、中和神社の例大祭を見学させていただきますが、これを機会に祭りと祈りについて考えてみてください。

 

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■中和神社 例大祭の見学

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午後から、中和神社の例大祭を見学しました。お祭りでは、巫女が「浦安の舞」を奉納して、神官がご神体を御輿に移し、神輿の渡御が行われます。中学生以上の青年たちによる天狗の舞も披露されました。あいにく天候が不安定で、神輿の渡御は中止となり、子ども御輿だけが小学校の周りを一周することになりました。小学生たちが元気に神輿を担ぎます。真庭なりわい塾の塾生も一緒に歩いて、声援を送りました。

また、駒宮副塾長が当塾を代表して玉串を奉奠し、御神酒やお餅のご相伴にも預かりました。参加させていただき、ありがとうございました。お祭りの見学の後は、塾長による、まとめの講義を行いました。

 

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■講義「私達の暮らしと祈り・祭り~農耕の民における祭りの意味」

澁澤壽一(塾長、NPO法人共存の森ネットワーク理事長)

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<高度経済成長による暮らしの変化>

「祈り」や「祭り」は、現代では「宗教行事」と捉えられますが、それは戦後の教育によるものです。「祈り」や「祭り」が、そもそも地域にとってどういう意味なのかを、今日はお話ししたいと思います。

この50年で、日本人の暮らしはどのように変化したでしょうか。人間の生活が地球環境に負荷をかけるようになったと同時に、生きること・食べることは私にとって最優先の事項ではなくなりました。より付加価値の高いもの(工業製品やサービス)を売り、食料は海外から調達するという考え方に変わりました。その結果、一次産業は衰退し、耕作放棄地は増え続けています。いったん耕作放棄すると、風景は、あっという間に変わります。左の棚田の写真は、あたたかい風景に見えます。食料が得られる安心感があるからです。それに対して荒れ果てた右の写真が寂しいと思えるのは、風景の向こうに、人の生存、暮らしが見えないからです。

風景を見ると、どのような自然があり、どれくらい人が働き、どんな智恵や技術をもち、どういう心持ちで暮らしているのかが、見てとれます。

<日本人の祈り>

皆さんは、祈ることはありますか? 日本人の「祈り」について、いくつか観点を書いてみました。正解があるわけではありません。皆さん自身で考えていただければと思います。

 

1.日々の感謝と願い事(家内安全や商売繁盛等)。これは、どちらも「祈り」でしょうか。

  1. 自分は自然(環境)の一部か、それとも自然は相対するものか。西洋では殆どの人が後者と答えますが、あなたはどうでしょうか。
  2. 自分は八百万の神の一員か、それとも神の国は別世界でしょうか。
  3. 一神教的多神教と本来の多神教の違いは。
  4. 【山折哲雄氏によると、一神教的多神教というのは、「あの神社は家内安全、あの神社は商売繁盛、あの神社は合格祈願……」というように多くの神を使い分けながら、かつ、神と自分との関係は一神教的な関係であるということです。本来の多神教は、自分(いのち)と自然(神々)とを重ね合わせ、一体となることだと思います】
  5. 神、宇宙、自然、心理、愛、ことわりは、どこが同じでどこが違うでしょうか。
  6. 「祈り」とは宗教行為でしょうか。

 

<自然や神と一体となることが農耕の祭りの原型>

これは秋田のある集落の風景です。一番奥の山が、山の神様が住むご神体です。集落では「祭り」を大切にしています。「祭り」がなぜ重要かというと、祭りは、年寄りから若い世代に、村の価値観や掟、生き方などを伝える場であるからであり、また一緒に祭りをつくり上げる過程で人間関係を築くことができるからです。

旧暦4月8日には、山の神様が田んぼに降りる、田植え前の重要な神事が行われます。各集落の公民館では、田んぼの畦畔土で竈(かまど)を作り、鍋をかけて湯を沸かします。湯が沸くと一世帯ずつ神主が呼び、祝詞をあげます。そして、煮えたぎった湯に稲藁を浸けて回し、湯気を吸い込みます。いわゆる湯立ての神事です。その後、直会(なおらい)と総会があります。まさに政教一体の行事です。

この祭りで、ある年、ある班が竈を作らず、ガスコンロで湯を沸かして大問題になりました。若い世代は簡略化したやり方の方がいいと言います。一方、年寄りたちは、畦畔土の竈で、堰(せき)の水を汲んで湧かし、山の薪で湯を沸かすことに意味があるのだと言って、埒(らち)があきません。そのとき一人のお年寄りが話してくれたのは、「農業のやり方が変わった」ということでした。

かつて農家は、毎朝、稲の色の違いを見極めて生育状況を判断し、水管理だけで肥料の利き具合や水温を調整し、稲を育てていました。しかし今は、化学肥料や農薬を使って、いわばマニュアル通りに米づくりを行うことができます。かつては、自然のあらゆるサインを見逃さないように、自分が自然と一体とならないと農業はできなかったのです。だから、湯立ての神事も真剣に執り行われ、人々は、それによって自然(神)と一体となろうとしました。農業のやり方が変わってしまったことで、祭りの意味が失われてしまったのです。

<食の暦>

これは山形県飯豊町に住むご夫妻です。85歳のお爺さんは、朝3時におきて、牛馬の餌にする草を刈り、朝飯を食べて田畑の草取りをし、午後は植林地の草刈りをして、晩飯を食べると倒れるようにして寝る、そんな日々を送ってきました。春先の山菜に始まり、晩秋の茅刈りまで、自然と向き合う暮らしが続くのです。そんなおじいさんの家の裏にあるのが「草木塔」です。お爺さんは、ここにある木や草を刈らせてもらうおかげで生かされている。だから、毎朝、感謝して手を合わせます。山で木を伐ったら植林し、下草刈りするのは当たり前。損得はまったく考えていません。自分と自然は切れ目がなく、つながっているのです。この世界がまさに、自然と一体となるということです。自然のスピードに置いて行かれず、その成長量を越えず、採りすぎず、採りすぎたらまた山に返す、ということです。そのバランスと一体感、これが本来の日本人の、自然と一体となった祈りであり、心なのだと思います。

<なぜ人間は祭りをするのか>

ここでひとつのビデオを見ていただきます。『下園の十五夜行事』(民族文化映像研究所製作)という鹿児島県枕崎市下園の十五夜行事の記録映像です。

この行事では、大量の茅を準備し、それを束ねた大綱で綱引きを行います。祭り前日には7歳から14歳くらいの子どもたちも茅集めに加わります。子どもは刈るのではなく、自分の力で茅を引き抜きます。そして、茅を束ねたものに萩やアケビを飾った「ヘゴ笠」を身にまとい、山を下り、広場に向かいます。広場には、集落の人々が集まり、大綱を練る作業を行います。

祭り当日は、いよいよ綱引きです。子どもたちは、神聖な大綱を守ります。すると二才衆(青年)が、竹でつくった火縄を勢いよくまわしながら、襲いかかっていきます。そして神の化身である子どもたちと二才衆(青年)、三才衆’(壮年)との綱引きが行われ、最終的には子どもたちが勝ちます。さらに、子どもたちによる相撲が奉納されます。

この行事の締めくくりでは、二才衆、三才衆による綱の競りも行われます。競り落とした人の畑には、翌朝、二才衆が綱をほぐして運び、畑に敷くのです。

 

<すべてが重なり合う世界>

乳幼児の死亡率が高かった時代、子どもは神からの授かり物でした。この行事では、茅抜きができる年代に達した子どもたちが「神の化身」となります。元服を過ぎた二才衆の世代もまた「神」です。山(自然、神の世界)からとってきた茅が神聖な綱となり、畑の肥料となって土に帰ります。下園の十五夜行事では、生誕と成長に伴う神からと人への循環と、自然物が神聖な綱となり暮らしの道具となり、また自然に返るという物質の循環とが重なっています。また、綱は自然物である草から人の手の中で道具に変わり、さらに集落の人たちが力を合わせることで神聖な綱になります。自分の体と集落のすべての人の体、その背景にある自然が、一本の綱の中でつながりあい、溶け込んでいくのです。

下園の十五夜の世界観では、神と人の世界の区切りは、ほとんどありません。「自然の一部として生きていることに感謝する」というのが、農耕民族のもっている「神」という感覚なのだと思います。そして山は、人間にとって生存の基本となるものです。田んぼをつくるには約8倍の広さの山が必要だったので、田んぼの面積は無制限に増えることはありませんでした。人間の生きる基本は山であり、山には「神」が棲むのです。

また、行事の中で相撲が行われます。相撲は大地のエネルギーを取り入れる作業です。四股名を名乗ったときに力士は「神」となり、大地のエネルギーをより多くもらえる力士が横綱になります。土俵では四股名を名乗る神としての自分と、人間としての自分が同居しているのです。

すべて重なり合う空間、多重性をもった姿。それが、「本来の多神教」なのだろうと思います。

 

<祭り、祈りの本質>

自然、神、宇宙という法則、コミュニティや暮らし、そして自分(個人)。すべてが重なり合っていることを体感する作業、それが恐らく、「祭り」というものの本質だと思います。

一方、「祈り」は、人間が非認知的能力(暗黙知、心の目)でしか感じ得ない世界と一体となる行為といえると思います。非認知的能力とは、言葉にする以前のさまざまな感覚です。キンモクセイの匂いとユリの花の匂いは、感覚としてはわかるけれども言葉では説明できません。その感覚(非認知的能力)は、幼児期に自然の中で遊ぶような体験によって豊かになり、その豊かさは、その人が成長してからの幸せ感や満足感につながるということが、近年、研究者によって明らかにされています。

サン・ティグジュペリの「星の王子様」にこんな言葉があります。

「心で視なければ、物事はみえない 大切なことは、目に見えない」

私たちは、言葉による思考の始まりと同時に、非認知的能力を軽んじ、退化させてしまったのかもしれません。

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■市長懇談

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この日の夕食後には、太田昇・真庭市長との懇談会を行いました。塾生ひとり一人が自己紹介し、それぞれの思いを語り、市長からのコメントをいただきました。真庭市の課題や取り組み等に関する質疑応答もまじえ、約1時間半にわたり、充実した時間を過ごすことができました。

 

○10月9日(日)中和地区の歴史に関する講義とパネルディスカッション

 

最終日は、中和地域づくり委員会会長の大美靖雄さんに、中和地区の自治とその歩みについて、講義いただきました。あわせて、吉永忠洋・副市長をお招きし、塾長、副塾長をまじえたパネルディスカッションを行いました。

 

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■講義「小さな村の140年の軌跡」

大美 康雄(副塾長、中和地域づくり委員会会長)

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<中和のはじまり~中和村の誕生と人口増加の時代>

中和地区には約2万3千年前から狩猟採集民が生活した痕跡があります。全国初の戸籍調査が行われたのは、明治5年ですが、その時の人口は774人で、現在と大差ありません。明治10年、5ヶ村(別所、吉田、下和、真加子、初和村)の連合により、中和小学校が創設され、明治22年には、これらの村が合併して中和村が誕生しました。この時、部落有林野は中和村の名義となりましたが、従来通り、薪炭林野採草地として共有林管理が続きました。その後、製鉄所や製材所が出来、製炭業が盛んになるなど、産業が活発になり人口も増加します。主要作物は、米、タバコ、繁殖牛でした。

 

<戦後復興時代と民主化の時代>

戦後は、開拓農協を設立し、ジャージー種乳業の導入。耕運機なども普及し、農業生産・食料増産が推進されます。昭和25年には1708人と中和村の人口もピークを迎えました。こうした中、民主化の動きもおこります。ひとつは分県運動(当事、岡山県から分かれて、鳥取県下に入ろうとした運動)。もうひとつは、昭和32年の町村合併で、県下初の住民投票を行ったことです。住民投票は、当時の村長のリコールにまで発展。結果として合併しませんでした。なお、この時、将来の合併の可能性を見越して、村有林1500haを村民に1戸4~5haずつ払い下げることが議決され、実施しました。

 

<高度経済成長の時代>

高度経済成長の時代には、開拓農地だった別所地区で供出米1000俵を突破した他、大根が蒜山の主要作物となり、野菜生産連合会が発足し大産地が形成されました。一方で、全国的に化石燃料が普及し、製炭業が衰退。出稼ぎ者が増加します。

社会的には、「国民年金保険」と「国民皆保険制度」が整い、長男が家を継いで親の世話をするという義務や負担が軽減し、選択的定住の時代に中和村も入っていくことになります。

 

<地方の時代>

1970年、中和村の人口は1115人となりました。「過疎地域対策緊急措置法」の制定により、過疎地域に指定されます。一方で、1970年代は、全国的な開発ブームが起こり、地価が高騰しました。中和村では縫製工場を誘致したほか、村有林約400町歩を大手ゼネコンが買い取り、ゴルフ場開発計画が持ち上がりました。その後、約20年にわたり、この計画が実施されるか否かに翻弄されることになります。この頃から、外部に依存する感覚が抜け切れなくなったように思います。

 

<地域づくり(脱過疎)の時代>

1980年代になると、20代から50代が集まって地域を盛り上げていこうという機運が高まってきました。農林業文化祭(現在の紅葉祭)の開催。「青少年語り部ハウス」の完成。異業種異世代があつまった「中和村の産業振興と活性化のための協議会」も発足しました。そのほか、中学生シンポジウム「中和未来村議会」を行い、「農業・農村まるごと体験村」により都市住民との交流を図るなど、地域づくりが活発になった時代です。

昭和62年、中和村が初めて中和村振興計画を策定しました。その時のキャッチフレーズは、「豊かな兼業農家づくり」です。その後バブル景気でリゾート計画が持ち上がったものの、バブル崩壊によりすべて破綻。平成2年、人口は923人になりました。

 

<低成長と自立対策の時代~合併競争の時代>

1990年代には、移住定住政策にも力を入れようと「中和村定住促進条令」を制定し、UIターンへの対策措置を決め、ファーマーズビレッジや村営住宅を建設します。

そして、この頃から平成の大合併に向けた協議も始まり、平成17年、新制真庭市が誕生。中和村としての歴史は幕を閉じます。

 

<多様な暮らしと稼ぎを作り出す地域へ再チャレンジ>

合併後、平成22年の人口は675人です。新たな地域づくりの動きとして、いきものふれあいの里を活用した「真庭・トンボの森づくり」(企業の森づくり)が始まりました。また、「中和いきいきプロジェクト」の一環として中和地域薪生産組合が設立し、住民による津黒高原荘の薪ボイラーへの燃料供給が始まったことは、皆さんご承知のとおりです。さまざまな地域づくりの活動は、現在、13の自治会と9つの各種団体からなる「地域づくり委員会」を中心に行っています。

 

<おわりに>

こうして、中和の歴史を振り返ると、農山村はずっと「時代」に追いつく努力をしてきたのだと感じます。ある意味、「時代」とは「都会」であったのかもしれません。しかし時代の局面は変わってきました。金銭的に豊かな暮らしを求めて走り続けてきた時代は終わり、人々の価値観は変わりつつあります。ゴールが変われば今までの最後尾がトップになることもあるかもしれません。私は長年、役場職員を務めて、すでに退職しています。これまでは、塾生の皆さんを応援する立場だと考えていましたが、塾を一緒に受講する中で、私自身も変わってきました。これからは、自分なりの価値観と能力にあった「個人の名刺」をつくりたい。皆さんに負けないように、私も「小さな生業(なりわい)」をつくりたいと思います。

 

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■パネルディスカッション 「集落単位の自治の大切さと行政の役割」

吉永忠洋(真庭市副市長)/澁澤壽一/大美康雄/駒宮博男(コーディネーター)

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<行政依存と自治の喪失>

澁澤「大美さんの講演を聞きながら、改めて思いますが、農山村の人々は、生活に困って都会に出たわけではなく、ただ時代を追いかけてきたのかもしれません。これは、日本じゅうの農山村に共通する課題だと思いますが、かつてはコミュニティによる自治がしっかりし、自立していた地域が、いつから行政に依存するようになってしまったのでしょうか。なぜ、自分たちの暮らしは自分たちでつくるという気持ちが失われてしまったのでしょうか」

吉永「ある地域では、『自治がなくなったのは、祭りに行政が踏み込んできてからだ』と聞いたことがあります。地域の祭りやイベントをすべて役場職員が段取りするようになり、地域の人はそれを頼るようになりました。行政が行政のやる範囲を自ら広げてしまったのではないでしょうか」

駒宮「職住不一致になったことにより、地域のことを住民自身ができなくなってしまったことも大きいと思います」

大美「中和のような小さなムラの場合には、皆がひとつの家族でした。役場には20~30人が勤めていましたが、まさに庭先行政を行っていました。ただ、その役場職員が走り過ぎて、地域の反発を受けたこともありました。その点は反省しています」

 

<多様な価値観やライフスタイルを許容する>

吉永「今、地域の存続自体が危ぶまれる中で、農山村地域もだいぶ変わってきました。外からの智恵や新たな価値観を許容することができるようになってきたようになってきたと感じています」

駒宮「自治が失われた地域を再生するには、新たな価値観や多様性を認め合えるような、新たなフェーズをつくることは大切ですね。その前提として、個の自立は不可欠です」

澁澤「最盛期の江戸の人口は100万~150万人といわれていますが、その時、行政・司法・警察など民政をつかさどっていたのは奉行所で、その人数は50人程度。50人で150万人を治めていたのです。なぜ、それが可能だったかというと、自治組織が十分に機能していたからです。自治に参加できない人は一人前と認められてこなかった。それが明治維新以降、国による中央集権になっていったという背景があります」

大美「中和は今、それぞれの集落の個性。各家や個人の生き方の自由度が高くなってきたように感じています。かつてUターン者が、この地域で初めて有機農業に取り組んだとき、地域側はまったく理解がありませんでしたが、今では、有機農業の輪も広がり、大きな力になっている。さらに、Iターン者など若い方たちが様々な取り組みを自力で、希望をもってやろうとしていることに勇気づけられます。これから、それぞれが自由度の高いライフスタイルを実現できる、面白い地域になっていくのではないかと思います」

 

<地域内で経済を循環し、自治を取り戻す>

駒宮 「中和地区の場合、除雪作業とか老人福祉など、地域内でやろうと思えばできることを外部経済に依存する傾向にあるのではないでしょうか。そういうものを内部化できると小さな雇用がうまれてきます。旧中和村は手厚い行政サービスをしていたということですが、合併して支所の職員は減りました。これからは、すべてを役場がやる必要はなく、それを担うのは地域振興会社でも良いと思いますが、どうでしょうか」

澁澤 「地域振興会社をつくる利点は、お金が共通のコミュニケーションツールとなり、皆が理解しやすくなるということです。ただ、多くの場合、会社をつくったら、その先には利益を求めようとする。そうではなくて、お金や組織はあくまでもツールとして考え、共に生きていくことを地域内で確認し、共有することが大切です。そして食料やエネルギー、教育、医療、福祉を、地域でできるだけ賄い、循環する経済をつくる。たとえば、教育について考える場合も、既存の学校教育がすべてではありません。これまでのホワイトカラーをつくる教育ではなく、ものづくりができる人材を育てるとか、敗者復活がいくらでもできるような社会をつくるとか、そういった議論もしながら、どんな学校が地域の将来にとって必要なのかを住民自身が真剣に考えなければなりません」

 

<これからの自治に向けて>

大美 「旧中和村の職員をしていたので、その反省からですが、行政は型にはめたがるんですね。ところが型にはめると、元気な個が動かなくなってしまう、いっときは良くても持続しない。やる気のある人が、強い意志と価値観をもってやっていくことが大事だと思います」

吉永 「行政はルールつくるのが仕事ですが、ルール作っても駄目だということです。真庭市は合併直後に、コミュニティで自由に使えるお金を配るから、その受け皿となる組織を、地域ごとにつくらせたことがありました。しかし、ただ組織にお金を落とす方法では何も変わらなかった。むしろ、住民がやりたいということを、どう応援するかという仕組みが必要だと考えました。それを私は『地域振興会社』と呼んでいます。住民が自分たちで範囲を決めて自分たちで経済をまわすということが重要なのだろうと思います。地域ごとにフェーズが違うので、同じ市内でも同じやり方は通用しません」

澁澤 「地域づくりの場合、他地域の事例から学ぶことがたくさんありますが、よい事例のシステムをそのまま持ってくればよいかというと、そうではありませんね。たとえば、新潟県村上市高根は、旧村の自治を今も維持しています。そのベースにあるのは、昔ながら祭礼行事をいまもきちんと行うということです。それによってコミュニティの結束を維持しているのです。経済性とか合理性とは次元の違う論理が生きており、その上で、いまも高根独自の区役場が運営するような自治が維持できているのです。そういう心の問題、価値観の問題を、当塾では考えていきたいと思います。また、地域活性化の仕組みとかシステムは、少し考えれば誰でも思いつきますが、それを地域で実際に動かす人がいるのか、住民同士が有機的につながっていけるのかといったことは、また別の課題で、それは時の運も含め、それに適した時期があるのかなと思います。

吉永 「何より大切なのは人ですね。人がいない地域は何もできない。そして、外からの新しい風が入ると良い、というのは実感しています。そういう意味で、真庭なりわい塾のみなさんには期待しています。そして、行政職員も同じようにレベルを上げないといけない。今、僕たちは地域の中に目をむけるだけでなく、外にも目を向けています。地域の人が自治をするために必要な情報、技術、人材などを得るために、そして世界じゅうから真庭に来てもらうために。そういう意味で、住民自治の向上とあわせて、行政の役割もこれまで以上に大きくなると思っています」

 

■塾生、聴講生の感想

○逆補完性(中央集権)の現実を逆転させるためには、自治を復活させる必要があり、そのためには各個人が「務め」を引き受ける必要があることを認識しました。自治の担い手として何かを引き受ける覚悟の重要性を感じました。

○(下園の十五夜行事で)綱を媒介とした神、自然、人間、コミュニティにつながりのあり方は、とても美しいものだと感じました。神とは崇め奉るものではなく、身近にある(感じる)目に見えない何かであり、それは自分とつながっていて、それによって生かされていると思うと、祈りや祭りが自分の問題とリンクしてきて、その意味がさらによくわかってきます。

○(太田市長には)多くの質問に誠意をもってお答えいただき、気持ちのよい議論ができました。多様性を受け入れる姿勢にとても好感がもてました。

○(集落単位の共同作業や祭礼行事の話を聞いて)コミュニティの活動が、同じ中和村の中でも集落によって大きく異なっていることに驚きました。

○(中和神社の祭礼は)日にちが決まっているお祭りで、例年は平日で人がいないことが多いと聞いていたので、こじんまりした祭事を想像していましたが、多くの人が役を持って参加しないと成立しない内容で、大がかりなお祭りでした。真庭なりわい塾からもご挨拶させていただき、御神酒とお餅をわけていただいて恐縮でした。地域の方に感謝です。

○(中和の歴史の話を聞いて)当初は、ゴルフ場やリゾート開発など大規模なハード面の計画が進んでいたのが頓挫し、次に若者定住を考え、現在はソフト面(地域の集まり、見守り、自然の魅力を伝える活動)に移っていった歴史が興味深かったです。大きな流れや画一的な考えにただ乗るのではなく、その地域にあったことを考えていくことが活性化のポイントなのでしょうか。

○(副市長をまじえたパネルディスカッションを聞いて)日本の教育は『自分で考えない』人間を育てる教育だと思うことがありますが、『自分で考えること』が地域づくりのポイントなのかなと思いました。若者は、「自分で考えて行動していい」という場があれば、主体的に行動します。自治も「多様な価値観が認められる」という雰囲気があれば、自主的に行動し、そういった人が増えれば、ネットワークも拡がっていくのかなと思いました。

 

■おわりに

本講座の実施にあたり、塾生は、地域のコミュニティハウスに宿泊させていただきました。荒井集落と別所集落の皆様、ご協力ありがとうございました。

また、太田市長、吉永副市長、パネルディスカッションや宿泊準備等にご協力いただきました地域の皆さま、本当にありがとうございました。

次回の講座は11月12~13日、教育や空き家活用等をテーマに、農山村地域の課題と将来を考えます。

 

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真庭なりわい塾 第6回講座

「コミュニティの原点を学ぶ~人と人、人と自然、世代と世代をつなぐ~」

開催日:2016年10月8、9、10日(土・日・月)

会場:中和保健センター あじさい

内容

(1)講義1「地域主義の全体構造~いま、なぜ地域か~」 駒宮博男

※資料「地域コミュニティと自治」.pdf

(2)パネルディスカッション「コミュニティの中ではたらく、生きる」

(3)グループワーク「自分の住む地域のお役・つとめは?」

(4)8月講座の聞き書き作品の確認と仕上げを行う (話し手の方を訪ねる)

(5)講義2 「祭り・祈り・宗教について考える」

※資料「究極の地域活動」.pdf

(6)中和神社の祭りを見学

(7)講義3「私たちのくらしと祈り」

※資料「私たちの暮らしと祈り」.pdf

(8)真庭市長との懇談会

大田昇(真庭市長)

(9)講義4「中和地区の成り立ち」 大美康雄

※資料小さな村の140年の軌跡.pdf

(10)パネルディスカッション「集落単位の自治の大切さと行政の役割」

吉永忠洋(副市長)/渋澤寿一/駒宮博男/大美康雄

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