講座報告

第3回 「地域の産業と暮らし ~森林とバイオマス~」

2016年7月9~10日(土・日)に真庭なりわい塾の第3回講座を実施しました。

今回の講座は「地域の産業と暮らし~森林とバイオマス~」と題し、講義、映画上映、パネルディスカッション、現地見学を行いました。

 

塾長講義①はじめに、塾長の澁澤寿一氏(NPO法人共存の森ネットワーク理事長)が講義を行いました。

(※講義内容を一部抜粋して掲載します。※講義資料はこの報告の最後に添付します。)

 

 

 

■講義「日本の森と人の暮らし」

<地球生態系 ~持続可能な社会とは~>

私たちが住む地球というのは、宇宙のなかのたった一つの星でしかありません。外から入ってくる唯一のものが、太陽のエネルギーです。他には何も入ってきません。地球上にあるものだけで、グルグルと回っているだけです。

地球に毎年入ってくる太陽のエネルギーは、地球上に残っている石油を一瞬で燃やしたときに出るエネルギー量の400倍です。しかし、残念ながら、私たちはこの太陽のエネルギーを食べて生きていくことはできません。この地球上で、太陽エネルギーを取り込むことが出来るのは、今日のテーマである「森」、つまりは光合成ができる植物、植物性プランクトン、藻類です。私たちは、植物と植物を食べて育つ動物を食べて生きています。そして、私たちが死ぬと土に還ります。

ところが、この50年、私たちは石油、石炭などの地下資源を使い始めてしまいました。私たちが石油、石炭に頼った生活を始めてから、わずか50年です。しかし、それが、プラスチックやビニールのゴミの山をつくり、二酸化炭素の排出量を増大させ、地球温暖化を招いています。それが、今の地球の現状です。

 

<日本の原風景>日本の原風景

これは、日本の原風景と言われる写真です。目の前に田んぼがあり、食べるお米があって、住む家があって、家の後ろには林と森があります。スギやヒノキなどの針葉樹は、木材の中でも直線が比較的とりやすい樹種です。ですから日本人は昔から家を建てるのにスギを使ってきました。広葉樹は、燃料として使い、あるいは家具や道具をつくる材として使ってきました。スギ林の奥にある薄い緑色の山はナラなどの広葉樹。燃料として使ってきた山です。この原風景の中には、私たちが生きていくためのすべてが入っています。

 

<日本の森の多様性>

日本の森は、多様性が豊かです。その要因の一つに、氷河期があります。日本海は氷河期に北から閉じていきました。千島海峡が大陸と地続きになり、寒流の流入を遮ると、南からの暖流だけが日本海に入るようになり、日本列島は湯たんぽを抱えているような状態になりました。そのため、日本列島には氷河が発達せず、動物が集り、多種多様な植物が育ちました。

もう一つ、多様性が豊かになった要因は、その植物を人間が利用してきたからです。植物は太陽の光が必要ですから、大きな木が育つと、その下の植物は育たなくなり、多様性が失われます。一方で、人間は、木を自分たちの暮らしに利用してきました。日本の森は、人が利用することによって多様性を維持してきたのです。人間が利用しなければ、確実に森は多様性を失われます。

 

<森の伝統的な利用>秋田県秋田市 鵜養集落

この写真は、秋田県秋田市の鵜養集落です。江戸時代、秋田では、絶えずどこかの地域で飢饉が起き、死者が出たという記録が残っています。ですが、この鵜養には、餓死者の記録が残っていません。鵜養は、川の最上流部の集落で、山の中にあります。森からの恵みを徹底的に利用することで、死者を出さなかったということです。

鵜養に行って最初に見たのは、この写真の風景でした。山の一つの斜面が、すべて伐り払われています。話を聞くと、その斜面は薪山であり、伐り払った部分が、この集落の一年間分の燃料であるということがわかりました。鵜養では、こうした燃料林を集落の共有財産として33箇所持っており、1年に1箇所ずつ伐ります。34年目になって、最初に伐った場所に戻ると、森の木々はすっかり成長し、元に戻っているという仕組みです。つまり、森を持続的に利用してきたということです。

伐った翌年、その場所に行ってみると、ワラビなどの山菜が一斉に芽を出しています。数年たつと草が繁茂し、萌芽更新した枝も伸びて、ワラビは出なくなりますが、腐った伐り株からはキノコが生えてきます。燃料林として利用しない奥山では、トチや栗の実を採取することができました。人々は、森の成長にあわせて、生きるために必要な恵みを得てきたのです。

 

<環境と、人間社会の持続不可能性>吉野の森

これは奈良県川上村の250年生のスギ林です。このスギを植えたころに比べて、林業の技術はものすごく高くなりましたが、もうこの森を、私たちはつくることが出来ません。

30年を1世代として、8~9世代が、この森を育て、大切にし、つないでいくという意識をもたないと、この森をつくることは出来ないからです。今、私たちの暮らしは、森ではなく、石油や原子力に頼っています。私たちは次世代に森の価値をつなぐことができません。つまり、環境の持続不可能性は、人間社会の持続不可能性であり、環境問題は心の問題だということです。

この持続不可能性を持続可能性に変えるためには、いくつかのキーワードがあります。一つは、人間が生活するリズムを、自然が復元する時間に合わせることができるか、ということです。自然には、そのような性質のものが、どのぐらいの量あって、それによって何人が生きていけるのか。どのように働けば、それを得られるか。そのための知恵や技術も必要になってきます。そして何よりも大切なのは、心の置き方です。かつては、有限な自然環境の中で生きなければならなかった。だから一生懸命、森と上手く付き合うことを考えました。今は、森と付き合わなくても、石油や原子力をはじめ、海外の資源を頼って生きていけるようになりました。そして日本の森には、誰も目を向けなくなりました。

 

<私たち消費者の問題>

木材は、1960年代に貿易が自由化されました。その頃、日本は家電や自動車が輸出超過になり、貿易の不均衡が起きていたということです。日本人は、家電や自動車を輸出し続ける代わりに、木材を自由化しました。

現在、日本の木材利用量は、国産材と輸入材を合わせて7,000万㎥です。一方で、国内の木材の成長量は8,000万㎥です。つまり、日本は、木材を自給できるということです。一方、スギは世界一安い価格です。それでも、日本は海外から木材を輸入しています。国産材が使われない理由は、そのほとんどか、消費者側の問題です。

たとえば、皆さんは車を買うときに、パンフレットを一生懸命読み、燃費、安全装置、内装などのスペックを細かく見比べてから、購入する車を決めます。ですが、住宅を買うときは非常に淡泊です。若い夫婦が住宅展示場にモデルハウスを見に行くと、大抵、奥さんはキッチンなどの水まわりを見て、住みたい家を決めます。旦那さんは、太陽光発電などの設備を見て、決めます。どの産地の木がどの程度使われているか、ということに関心を持っている消費者はほとんどいません。また、消費者は昔と比べて白い材を好むようになりました。北欧などからの輸入材に比べて、赤みがあるスギは敬遠されます。だから、大工さんは、クロスを貼る部分にも白い木材を使いたがります。

住宅の納期は3~4か月程度にまで短くなりました。夏に住宅展示場に見に来ている人が、お正月は新しい家で過ごしたいというのが普通の感覚です。

かつてはまず、大工さんと一緒に山に行き、家に使う材を選ぶところから始めました。伐ってきた木は、まず乾燥させます。十分乾燥したら、柱や板に挽き、また乾燥させます。その後、材に刻みを入れます。材の刻みが済むと建前をして、屋根を葺き、床や壁の内装が出来上がり、やっと家が完成します。ですから、一軒の家を建てるのに2~3年かかるのが当たり前でした。今は短期間で家を建てなければなりませんので、住宅メーカーや工務店は、乾燥した同じ規格の木材を、一度に大量に仕入れることができる海外から買うようになりました。木材を海外から買うということは、その国から水や自然資源を奪っていることにもなります。もう一度、日本人は自国の森林資源を見直す必要があると思います。

 

次に、映画「奥会津の木地師」(民族文化映像研究所製作)を上映しました。

中和地区の上杉峠の近くの山中には、木地師の墓が多く残されています。明暦3年(1657年)、上杉には15軒130人、山乗には7軒70人の木地師がいたという記録も残されており、かつての木地師がいた時代に想いを馳せました。

 

■映画「奥会津の木地師」

かつて木地師も山から山へと移動しながら、碗などの木地物を作って生活していました。

この作品は、昭和初期まで福島県南部の山間地で移動しながら木地物を作っていた家族による、当時の生活と技術の再現記録です。

映像は、まず木地屋敷を作るところから始まります。柱は山の木を使い、屋根や壁は笹で葺きます。家の中には、囲炉裏、土間、座敷、フイゴやロクロ台などを作ります。水は、谷から家の中に引きました。屋敷ができあがると山の神を祀り、フイゴ祭りをします。

碗作りは、山で、ブナを伐り倒すところから始まります。伐り株には笹を立てて、作業が無事に終わるように神に祈ります。そして、倒したブナに切り込みを入れていくつもの山型をつくり、マガリヨキでその山型をはつり起こして、碗の荒型を掘り出します。荒型は木地屋敷に運び、碗の外側を削り、次に中を刳ります。そして、手引きロクロを使い、碗に仕上げていきます。できあがった碗は、馬の背で町へ運ばれていきます。

 

映画上映後に、パネルディスカッションを行いました。ご協力いただいたのは地元、一の茅集落の實原周治さん(78歳)と下鍛冶屋集落の藤井純夫さん(86歳)です。

真庭市の蒜山地域には、クリの生木を輪切りにし、年輪を中心にして挽く器、郷原漆器があります。その伝統を受け継ぐ高月国光さん、そして、湯原で家具づくりをしているMOMO工房の元井さんご夫妻などにも会場にお越しいただきました。

 

■パネルディスカッション「中和の森の歴史」

<炭焼き小屋は、木地屋敷と同じ作り方です>

藤井さん、實原さん實原さん-昭和30年代から平成になるまで、山仕事をずっとしてきて、その間、猟師もしました。先ほどの木地師の映画を見ましたが、私が住む一の茅集落で、土蔵に残っていた昔の木地道具を見たことがあります。炭焼き小屋も木地屋敷と同じ作り方をします。

 

藤井さん-炭焼きを長年やってきました。津黒いきものふれあいの里の初代館長も務めました。炭焼き小屋は、炭釜の隣に家を造り、炭釜の上にも屋根を葺きました。映画で見た木地屋敷と同じように、屋根は笹で葺きました。1~2か月寝泊りして炭を焼きます。昭和初期までの話です。炭焼き小屋は、今でも作れます。

 

<タタラの歴史>

實原さん-この地域では、昔のタタラくずを中国製鉄の溶鉱炉で利用していた時代がありました。それに伴って、炭を焼く製炭部という組織が作られ、山子と呼ばれる人たちが炭焼きをしていました。タタラ(製鉄)というのは、真砂土から雲母の中に含まれている鉄分(黒砂鉄)を取り出して、炭と一緒に釜に入れて溶かし、玉鋼と呼ばれる鉄をとり出す作業です。古代は一つの場所に小さな釜を作って、1~2回鉄をとったら、また違う場所に移動するというやり方でした。江戸時代になると、大きな集団になり、炭を焼くのも砂鉄をとるのも大規模になり、経営者、技術者、作業者がそれぞれ隔離された場所で作業しながら一つの集落をつくっているような形になりました。この地域では、それが明治10年頃まで続いていたようです。タタラには、「砂鉄七里に炭三里」(1里=3.75㎞)という言葉があります。タタラ場は、近場で大量に炭を供給できる採れる場所でなければなりませんでした。今でも、田んぼや津黒いきものふれあいの里では、砂鉄が出ます。

 

藤井さん-この地域では、昭和初期まで炭をつくり、製鉄会社に出荷していました。その頃には、半年に1回ほどお金をもらうと、下鍛冶屋通りに一杯飲みに行くというような生活をしていました。私は広島県にある帝国製鉄へ、炭を出荷していました。

煮炊きに炭や薪を使っていたのは、電気、ガスが入るまでです。電気は大正15年、昭和元年。ガスは戦後、昭和32~33年頃に入りました。今でも、日常生活で炭を使っています。肉や魚を食べるには、七輪の炭が一番おいしく食べられます。

 

<狩猟の話>

實原さん-昭和42年頃に猟師を始めました。その頃、イノシシやシカは少なかったです。夏、たまに田んぼを荒らす程度で、冬は南に行ってしまい、この辺りにはいませんでした。狩猟で獲るものと言えば、ウサギ、ヤマドリ、キジ、タヌキ、テンでした。

キジは飛び立つとき呼吸をせず、30~40mしか飛びません。そういうところへ予め人を配置しておきます。そして、キジが来ると追い立てます。それを3回繰り返すと、キジは飛ばなくなるので、獲ることが出来ます。

鉄砲を持たずにウサギを獲るのは、雪が浸みる2月下旬から3月頃です。ウサギは、雪の中に穴を掘って、穴の近くで外の様子を見る習性があります。そこへワラの玉を上の方から投げると、ウサギは猛禽類が来たと思って、逃げて穴の中に入ります。それを捕まえるという方法でウサギを獲りました。

この中和地区で一番猟師が多かったのは、昭和50年頃で38人いました。今は、2~3人しかいません。今、獣害はとてもひどいです。平成になってからひどくなりました。電気の柵で対応しています。積雪が少なくなったことも影響しているのだと思います。

 

<かつての山の利用>

實原さん-昭和30年代まで、田んぼがあって、その周りには畑があって、その上に草刈り場があり、さらに薪木をとる山があるという風景でした。木があるところまではとても遠かったです。今は、田畑の近くに木が繁茂している状態ですから、獣も出てきやすいのでしょう。植林も昔からしましたが、植林したようないい木は、立派な家でも使っていませんでした。土台には栗の木を使うなど、用途に合わせて様々な雑木を使っていました。今の山の中には、高級家具がとれる、いい木がいくらでもあると思います。ですが、山に入る人が少なくなって、そういう木がどこにあるかわからない時代になってしまいました。

 

藤井さん-昭和30年頃まで公有林(村有林)がほとんどで、私有林はごくわずかでした。大きくなった木は、伐って薪にしたり、春には毎年場所を変えて焼畑をしたりしていました。春には山が真っ黒に見えるほどでした。焼畑では、アワのほか、ダイコン、カブなど塩蔵材料を作りました。かつては牛や馬の飼料となる草刈り場もあり、余分な草は、牛や馬に糞と一緒に踏ませて肥料にして、春になったら田んぼに播いていました。

今、人工林も自然林もすごく歳をとって、低木はありませんし、薄暗い林になっています。伐っても伐り株から若芽(萌芽)は出ないでしょう。林の中へ入ると、昔よりも臭いように感じます。

 

一日目の最後は、赤木直人氏(一般社団法人アシタカ)に、中和地区の里山資源を活用した各種の取り組みについて紹介していただきました。

 

■赤木直人氏(一般社団法人アシタカ)の取り組み

<地域の里山資源を活用する>赤井氏

私は、たくさんの「なりわい」を組み合わせながら暮らしています。今回は、講座のテーマに沿って、山に関わる「なりわい」について話します。

私が使っている山の資源の一つは、木(薪)とクロモジです。それらの資源を、私は中和地区という範囲にこだわって得ています。今、地区の住民は650人ですが、そのうち、木材を伐って、私の土場に持ってきてくれる人は14人です。この程度の人数だと、誰が、どの程度、木を伐っているかがわかります。単に木を伐って利用するだけでなく、木を昔からの財産として次代に残すということを意識しています。それを把握できる範囲がこの中和地区というスケールであり、そのスケールに留めるということが、僕の「なりわい」の信念です。その中で、たくさんの仕事を見つけて、豊かに暮らしていくことを目指しています。

 

<木材の価格を皆で決める>

木材はその場で買い取っています。正味1㎥の広葉樹で6,000円、針葉樹で5,000円です。重さではなく、体積です。軽トラに積んで、後ろの窓にかかるぐらいが正味1㎥になるので、それを目安にしています。毎回ちょうど1㎥が集まるわけではないので、0.25㎥、0.5㎥、0.75㎥、1.0㎥と、軽トラに積んだ写真の見本を作って、持ってきていただく皆さんに伝えています。材が届くと、私が目視で計量し、その場で現金を支払っています。その日、汗をかいて働いた分のお金をもらって、晩酌をしたり、子どもたちに何か買ったりした方が楽しいだろうと思い、そのようにしています。地域のことをやろうとすると、若い人は働きに出ているため、自然とシニア世代と関わることになります。ですから、仕組みはとことんシンプルに、そして信頼関係を持って進めていくことが大事になると思っています。

薪ボイラー燃料として津黒高原荘へ販売する価格は、針葉樹で9,500円、広葉樹で10,500円です。丸太を90㎝の長さに伐り、割って、乾燥し、津黒高原荘に納入するまでを、私が4,000円でやります。この値段は、自分の暮らしのためだけではなく、地域のことも考えて決めています。材を持ってくる住民の方、加工して販売する私、使う津黒高原荘の3者、それぞれの立場があります。木を伐る方は重労働ですから、対価もたくさん欲しい。津黒高原荘は、灯油から薪に換えて手間がかかるし、経費も抑えたい。さらに、間に入っている私もボランティアではできない。それぞれの思いがある中で、誰かが自分の欲を出してしまうと、値段は決まりません。お互いが納得した価格を決めるということが一番大事です。こういった場合、市場価格はあまり関係ありません。

 

<クロモジの活用に挑戦>クロモジ

私の取り分である4,000円の中身は、薪割台の償却代、維持費、修繕費、私の人件費になります。私の人件費は、時給800円に満たない状況です。当然、会社に残るお金もありませんが、この金額で納得しています。とはいえ、それでは生活が出来ないので、広葉樹の一部をストーブ用やキャンプ用の薪にして販売しています。この場合、さらに薪を短く伐るなどの手間はありますが、1㎥当たり2万円で売れるようになります。住民の方から、年間約300㎥の木を買いますが、それで作れる売り上げは400~500万円程度です。そこから仕入れの原価や経費が差し引かれます。独り身なら十分やっていけると思います。私の場合は子どもが2人いますから、家族を養うにはまだ十分ではありません。

そこで、私はクロモジで、エッセンシャルオイルとお茶を作っています。クロモジは、適度な日差しと日陰がある場所を好み、間伐した人工林などによく生えている木です。珍しい植物ではありませんが、豊富にある植物でもないので、山に入って群生している場所を見つけても、半分以上は採りません。ある程度採ったら、また違う場所を探します。クロモジは伐ったら翌年、伐り株から芽が出します。種からも芽が出る生命力が強い植物です。それでも、目に見えているものをすべて刈り取るのではなく、必ず半分は残しています。

このクロモジの採取は、薪材を持ってきてくれる方や、そうでない地元の住民の方が草刈りに行ったついでなどに採って来てくれています。初めの頃は、仕入れのお金も払っていましたが、受け取っていただけないので、今では缶コーヒーを出しています。原材料費はゼロで、材料が揃います。

クロモジは、2週間乾かした後、葉だけを取って、3時間ほど蒸留してオイルを抽出します。精油率が悪いため、逆に希少価値があります。また、生より、乾燥させた方が、非常に香りが良いオイルになります。乾燥の手間はかかりますが、中和地区の特産品として良いものを作ることに重点を置いています。このエッセンシャルオイルの販売価格はで4,320円(3ml)です。市場価格は8,000円程ですが、私はこの値段で十分だと感じています。

オイルを抽出する際、排出される水にも成分が溶け出しており、3mlに対して800ml採れます。この水はフローラルウォーターとして一般的にも人気があり、1,404円(100ml)で販売しています。1回の蒸留で、1本のエッセンシャルオイルと8本のフローラルウォーターが採れます。

 

<季節ごとに「なりわい」を組み合わせる>

蒸留するクロモジの葉を切り落とす際に、枝も選別します。この枝は、クロモジの枝茶になります。マグカップ用のティーパックと煮出し用のティーパックの2種類をそれぞれ1,080円で販売しています。

このほか、民間企業の方と森づくりのイベント、林間学校や教育旅行の受け入れ、移住者向けの住宅管理、いぶりこうこ(燻製大根)の加工販売など、様々な仕事をやっています。教育旅行は、4~7月で150人程を受け入れました。地元の方を講師にして、薪割り体験をやっています。一人1,000円で受けていますので、150人で150万円になります。いぶりこうこは、秋の終わりに採れる大根を1週間小屋でいぶし続けた後、小糠浸けにして、2月頃から販売します。賞味期限は6月頃までになります。蒜山高原が一番賑わう時期は夏ですが、残念ながらその時期には売れません。添加物を入れて賞味期限を延ばすこともできますが、そうではなく、季節産業だからということで割り切ってやっています。

こういった様々な仕事を、自然のサイクルに合わせながら、自分のライフサイクルをつくるというかたちで「なりわい」を組み立てるのが私のやり方です。

 

<家族を大切にする>

このやり方で仕事を始めた1年目は、すべて一人でやっていました。生活費を確保するために、別の仕事も2つ並行していました。2年目からは、誰か仲間を集めてやろうと考えていましたが、一方で家族はとても不安だったと思います。家族や周りの方全員が私のような考えを持っているわけではないので、応援してもらうにはどうしらたいいか考えました。私自身は、住民の方との接点も多くなり、とても幸せでしたが、それは私だけで、家族にはなかなか伝わりません。いくら、新聞やテレビに活動を取り上げていただいても伝わりません。そこで、家族と一緒にやるということを選びました。同じ場所で同じ時間働き、同じように住民の方と接すると、家族も私も同じ目線になります。そうして家族に応援してもらえるようになりました。

薪土場での仕事は、週5日やっています。地域を大事にするという話をしてきましたが、妻の実家に移住したきっかけは、子どものためです。地域以前に家族を大事にするということが前提にあります。ですので、土日は子どもと一緒に思いっきり遊びます。働く時間も、子どもを学校に見送ってから、日が暮れる前までということにしています。

 

■夕食、宿泊夕食

今回の夕食は、津黒いきものふれあいの里でのバーベキューでした。地元実行委員の協力のもと、中和の美味しい食材を載せた手作りピザを頂きました。周囲の田んぼにホタルが飛び交う中、会話もお酒も進む贅沢な食事となりました。

 

そして、今回も地域のコミュニティハウスに宿泊させていただきました。津黒集落と下鍛冶屋集落の皆様、ご協力ありがとうございました。

 

2日目は、人工林をテーマに、真庭市本庁舎に近くの旧久世町の山林や木材市場、製材所を見学しました。はじめに、真庭木材市売株式会社常務取締役の井原敬典氏のご案内で、山下木材所有の人工林と真庭木材市売株式会社の木材市場を見学しました。また、山下木材株式会社の製材所を、常務取締役の山下昭郎氏のご案内で見学しました。

 

■人工林の見学(真庭木材市売株式会社 常務取締役 井原敬典氏)

<林業とは>井原氏

私は、真庭市旧勝山町富原で、先祖からいただいた30ha程の山を後世につなぐために林業経営をしています。平成16年の台風の後、原木市場にたくさんの風倒木が集積したことをきっかけに、原木市場の経営を引き受けて13年目になりました。林業経営としては、非常に厳しい時代を迎えています。

林業と言うのは非常に幅が広く、種を採るところから、住宅を建てるところまでが林業です。一般的な林業は、苗木を植えてから、5年間は草に負けないように、下草刈りを続けます。10~20年の間には、3~4回、枝打ちという作業を行います。20~25年経つと、除伐という木を間引く作業をします。30~40年経つと間伐を行います。50年以上になると、間伐材を売りながら続けていく経営になります。

植えたまま、枝打ちや除伐しないで放置しておくと、10~20年は成長しますが、雪や台風などで枝が折れたり、木が倒れたりします。台風などの被害で、斜面に植えられた木が、根こそぎ流されて崩れるといったこともあります。その後、徐々に、自然植生が回復していきますが、かなりの時間がかかります。

 

<林から森へ>

木を植えて数十年経つと、そこは林になります。さらに年数が経つと、森になります。私が子どもの頃は、一本の木から林に育つと、伐ってまた苗を植えて林に戻すということを林業でやっていました。その頃は材価も高く、それなりに売れていたので、生活ができました。現在は、林の状態で木を伐ってしまうと、次の苗木を植える費用も出ないような状態になってしまいました。

そこで私は、林の状態で伐るのではなく、森の状態まで持っていくということをやっています。森から木を伐って林に戻したり、木に戻したりということをやっています。林になるまで50年、林から森になるまで50年とすると、全体で100年のサイクルになります。50年サイクルでやっていたものを、100年サイクルでやるということです。

森と言うのは、上に大きな木があって、下に小さな木がある状態を言います。この辺りは、常緑広葉樹の暖地森林帯です。典型的なものは、ツバキ、ヒサカキ、カシなどで、それらの林がこの地域に一番合った状態だということです。この林の上にスギやヒノキなどの針葉樹がある森を目指すのが、私のやっている林業です。林を森の状態に持っていくには50年かかりますから、私の世代では、一本も植えなくていいということになります。これを私は「植えない林業」と言っています。このやり方を始めたのは40代でしたが、その頃は周囲にあまり受け入れられませんでした。今は60代になりました。ある頃から、「植えない林業」も面白いということで、だんだんと受け入れられるようになりました。

 

<林業経営の面白さ>樫西 人工林

森になると、一本当たりの単価がぐっと上がります。ですが、持っているすべての山を森にするというわけではありません。林にしておく場所もあります。約10分の1の山を、森にしていくように、長年様々な手間をかけて大切に育てています。木と付き合う林業は、そのくらい息の長い仕事です。ですが、所有者が山の管理をしない状態が多くなってしまいました。その辺りが林業の一番難しいところです。

木は、植えてから徐々に大きくなり、ある時から急激に成長します。また、ある時点から成長はなだらかになります。なだらかになる時点を200年とすると、50年毎に4回伐ることができます。100年毎だと2回です。50年毎の場合、100㎥の材積がとれるとすると、4回で400㎥とれます。100年毎の場合、350㎥の材積がとれるとすると2回で700㎥です。です。しかし200年置いておいて1回伐るとすると、400㎥しかとれません。長く置いておいたからといって、たくさんとれるわけではなく、更新しなければならないということです。材積だけで言うと、平均成長量の最高点で伐採を繰り返すのが一番とれる量が大きくなります。それに伐る際の経費を加えて考えていきます。いつ伐るかというポイントを決めることが林業の面白いところだと思っています。

 

■木材市場の見学(真庭木材市売株式会社 常務取締役 井原敬典氏)

<木材の価格>木材市場

真庭木材市売(株)では年間10万㎥を目標に、現在8万5000㎥を取り扱っています。売り上げが約10億円。最盛期は5万㎥で37億円の売り上げがありました。今は扱う木材が倍で、売上が半分という状態です。それだけ、木材の単価が下がったということです。

丸太の材積は、末口(梢側の切り口)の直径で測ります。13㎝までは1㎝刻み、14㎝からは2㎝刻みの切り捨てで測ります。末口直径30㎝の場合、30㎝×30㎝×長さで材積を算出します。末口側は細いため、体積を余分に計算してしまっているように思えますが、元口(根元側の切り口)は太くなるので、それで正確な値に近い材積を算出することができます。長さ6mを超える材については、元口側の太さが更に増えますので、末口直径に1㎝足して計算します。

ここに直径30㎝、6mの50年生のヒノキ材がありますが、これで1㎥当たり3万円程です。一本当たり1万円です。スギとヒノキでは、同じ30年生でもスギの方が大きく成長します。ヒノキはその半分です。昔は、スギが1万円だと、ヒノキが2万円の値が付きました。今は、スギが1万円でも、ヒノキは1万5千円くらいです。

 

<真庭の林業と製材業の基盤>

スギとヒノキでは使い道が違います。お酒で言えば、日本酒と洋酒くらいに違うものです。この地域の製材所は、スギを挽くところ、ヒノキを挽くところ、小さい木で挽くところ、大きい木で挽くところ、板を挽くところ、柱を挽くところなど、それぞれに専門の分野を持っています。これを専門挽きと言い、それを売る製品市場まで整備されています。こういった地域は、全国でも特異な例です。同じ岡山県でも南部に行くと、こういった基盤が整備されていないため、一つの製材所で様々な木から板や柱などの複数の建材を挽いている製材所が点在しています。

並んでいる丸太の印は出荷者の番号で、誰がどこの山で何年生の何の木を伐ってきたのかわかるようになっています。現在ではそれをバーコードで管理しています。それが、たとえ燃料になる場合でも、使う人は、その情報がわかるようになっています。製材所で情報を照会することもできます。このシステムは全国でもこの地域だけです。

 

■製材所の見学(山下木材株式会社 常務取締役 山下昭郎氏)

<製材の工程について>山下氏

この製材所では、スギとヒノキ両方を扱っていて、梁や柱などの住宅用の構造部材を製材しています。工程は大きく3つに分かれます。まず、第1工程として、丸太から角材をとります。第2工程は、材を乾燥させます。天然乾燥ですと、2~3年かけて材に含まれている水分を15%程度まで落とします。それを、蒸気の力で人工的に均一に抜いていきます。第3工程では、乾燥させた材にカンナをかけて仕上げます。

 

<第1工程-製材>製材機

この製材所での製材は、帯鋸が2枚付いた機械で製材します。まず、機械に材を載せて、担当者が一本ずつ材を見ます。丸太の切り口にレーザーを当てて、いかに効率的に、表面に節が少なくとれるか考えます。これを木取り(きどり)といい、職人技と言えるほど難しい作業です。この機械は、帯鋸が2枚ありますので、一度に2面の製材ができます。それを90度回転させて、もう一度通すと角材になります。それを繰り返して側板をとり、材の中心で柱をとります。1人の担当者が一日で650~700本の製材を行います。

 

こちらでは、製材した側板から、屋根の下地材である12㎜の野地板をつくります。側板を、まずは12㎜の薄さに製材します。その後、幅をとって野地板に仕上げます。側板のうち、30㎜や45㎜の間柱(まばしら)に使えるものは、この製材前に選り分けておきます。

 

柱材はこちらの工程に進みます。ここでは、まず担当者が一本ずつ材を確認して、種類毎に選別します。担当者一人で一日に1300~1400本の選別を行います。併せて、風倒木などの欠点を持つ材は振り落していきます。その判断時間は5~6秒です。振り落された材は、板や梱包材に加工して利用します。

 

こちらは柱にした時に、側面に丸みが出る一等材です。丸みがない均角(真四角)になる材は、特等材といいます。材には、一等材や特等材である印と、それを判断した担当者名も記入します。どの工程も目視による確認がすべてですので、誰がどの工程で責任を持ってやっているかを明確にしています。

 

<第2工程-乾燥>乾燥機

こちらが乾燥機です。乾燥機の中を見てみますと、材料一枚一枚の間に、必ず隙間を作って入れています。この隙間を空気が通ります。乾燥機の天井には、風を送る大きな送風機と車のラジエーターのようなものが設置してあります。蒸気がラジエーターを通った後、必要な熱量だけが送風機で送られます。スギですと、100℃以上まで温度を上げ、1週間かけて乾燥します。ヒノキの場合は、90℃です。100℃以上に上げることを高温乾燥、100℃以下は中温乾燥と呼びます。

木材は周りの空気の湿度と同じになるように湿度を取り込んだり、放出したりする機能があります。その機能と蒸気を利用しながら乾燥させていきます。乾燥機から出す際には、過乾燥状態になっています。なので、養生倉庫でしばらく寝かせます。その間、外の空気に触れることで、材は外気の湿度を取り込みます。また、寝かせている間に水分も偏りなく均一になっていきます。

乾燥工程で使う熱量は、以前は重油炊きのボイラーを使用していましたが、現在では木くず炊きのボイラーを使って蒸気を発生させています。木くずは、丸太を製材した際に出る樹皮や仕上げの工程で出るカンナくずを再利用しています。

 

<第2工程-仕上げ>曲がり材

乾燥機から出てきたスギ材は、乾燥前より落ち着いた色合いをしています。ここでも材料を一本一本確認しながら、仕上げていきます。主に確認する点は、材の曲りです。木材は繊維の塊ですので、乾燥する前は真っすぐでも、乾燥後に曲がっていることがあります。他にも、基準以上の割れがないか、木が凹んでいないかを確認します。欠点がある材料はB級品として3分の1程度の価格で出荷されます。目視の確認後は、機械で水分と強度を計測します。それをクリアしたものだけが、カンナをかける工程に進み、出荷されます。

最終的にこの製材所で、製品として出荷されるのは6割程度になります。出荷される先は、製品市場や住宅メーカーのプレカット工場です。

 

<プレカットの工程>建材

プレカットは、木材を切断し、継ぎ手や仕口の加工を施す工程です。昔は、大工が鑿(のみ)などを使い、手仕事でやっていた作業です。このプレカット工場には10名程の従業員がいますが、この人数で1日1棟の住宅建材の加工を済ませることが出来ます。「○○様邸」と書いて梱包された材ありますが、材一本一本に“いろはにほへと”の文字と数字が印字してあります。横方向に使う材には、横方向に記号が印字されており、縦方向に使う材には縦方向に記号が印字されています。これらの記号と住宅の平面図を照らし合わせて組み立てると、どなたでも住宅の骨組みを作ることができます。

 

 

最後に、塾長の澁澤寿一氏(NPO法人共存の森ネットワーク理事長)が講義を行いました。

(※講義内容を一部抜粋して掲載します。※講義資料はこの報告の最後に添付します。)

 

■講義「森林のバイオマス利用について」

<林業、製材業の厳しい現実>塾長講義②

これは真庭市勝山の町並みの写真です。勝山は、旭川の水運により、古くから木材の集積地として栄えました。今から20年ほど前、私が真庭を訪れた時、材価は下がっている状況で、細いスギ材は1本800~900円という価格でした。たとえば大根は1年で栽培し、1本100円程で売れます。50年育てても800円にしかならないというのが、木材の現実です。

祖父の代から一生懸命植えた山だけれど、木を伐って売っても固定資産税分すら利益は出ない。だからと言って放っておけば、荒れた山だと言われる。負の財産のまま、子どもに引き継ぎたくない。そういう話をたくさん聞きました。

当時、真庭には32箇所の製材所がありましたが、どこも決して経営は楽ではありませんでした。昔は、製材所から出た木クズは敷地内の焼却炉で燃やしていましたが、ダイオキシンに関する規制が強化されて、燃やすことができなくなりました。産業廃棄物として処理しなければならなくなったため、お金がかかり、製材所の経営はさらに厳しくなります。そこで相談を受けたのが、私が真庭の地域づくりに関わるようになったきっかけです。

 

<未来のディテールを想い描く>

当時、真庭の勝山や久世を中心に30代後半から40代前半ぐらいのメンバーが中心となって、地域づくりを考える動きがありました。1992年に結成された21世紀の真庭塾です。メンバーには、製材所やコンクリート会社の跡継ぎがいました。酒造会社の社長やお医者さんもいました。そして5年間で500回を超える勉強会を開催し、その成果を「2010年真庭人の一日」という冊子をまとめました。

13年後の未来を描くと言っても、ほとんどの人はすぐに思い浮かばないと思います。なので、ある秋の一日をイメージしました。朝、目が覚めて、そのときに食卓には誰と誰がいて、と言ったディテールを描いていくのです。13年先のことは夢のようですが、確実に一つだけ、確かなことがあります。全員13歳、年を取るということです。今、5歳の子どもは18歳になっています。大学に行っているのか、高校を出て真庭で働いているのか。家族はどうやって暮らしているのか……。それを、文章にまとめました。

 

「西暦2010年、秋。

私、造り酒屋の均ちゃんですが、私の酒蔵では、10年ほど前から、タンクを洗う洗剤に、環境負荷の低い、砂糖を原料としたものを使っている。

そんな私も、今年60歳代になり、最近では少し耳も遠くなってきた。それでも、真庭の川のせせらぎは、なぜか鮮明に聞こえる。

そして、元気のいい子供たちの楽しそうな声も聞こえる。

子供たちに人気なのは、冬季の温水プールである。これには地元製材業の自家発電による電気と蒸気が使われている……」(2010年真庭人の一日より)

 

文中に「10年ほど前」とあります。ということは、この酒造会社の社長は、3年後には環境負荷の低い洗剤に換えていきたいと考えていたということです。「川のせせらぎ」が聞こえるということは、川を護岸しない、瀬と淵のある川を未来も残していきたいと考えたということです。そして、木質バイオマスを利用した温水プールがあり、子どもたちが元気に泳いでいる、そんな社会をつくりたいということが、この冊子には描かれています。

 

地域づくりは、基本的に企業経営と同じだと私は思っています。たとえば、サービス業では、商品を売る棚の高さひとつで、売り上げはまったく変わってきます。つまり、経営は細かなディテールの積み重ねです。地域づくりもそうです。コンセプトだけを描いても何も進まない。想い描く未来のディテールから、現在を振り返り、今、何をすればいいかを考える。常にバックキャストしながら、そのディテールをどう実現していくかという作業を続けることで、真庭は急激に変わっていきました。

 

<木質バイオマスをさまざまな形で利用する>

製材所から出る木質バイオマス(樹皮、端材、おが粉など)を有効活用するために、ありとあらゆることをやろうとみんなで知恵を絞りました。燃料利用のために、製材所には木くず焚きのボイラーを設置しました。ストーブ用のペレットもつくりました。ヒノキのおが粉と珪藻土をまぜて、猫砂をつくりました。木のチップとコンクリートをまぜて、軽くて吸水性の高いコンクリートもつくりました。

メンバーの共通認識は、何か一つのうまい話だけにかけるのはやめて、やれることは全部やろうということでした。どれかひとつがダメになっても、どこかが逃げ場になるような形でやっていこうということです。

 

ところが考えてみると、それらの原料はすべて製材所から調達しています。製材所の経営が順調な時は、何も問題はありませんが、その経営は住宅需要に左右されます。消費税が上がる直前には、駆け込み需要があって仕事が増えますが、消費税が上がった後は、急激に落ち込みます。対前年比で売り上げが60%減ということが普通に起こる産業なのです。

そこで考えたのは、森からの木材の出口を、もう一つ作ろうということでした。通常、製材所で扱う材は、木材市場に集ります。そして、製材には適さない材(細くて曲がった材、枝葉、広葉樹など)は出てきません。それらも含め、ありとあらゆる材が集まる集積基地を、新たにつくろうと考えたのです。この集積基地が出来て、木質バイオマスの安定供給が可能になりました。

 

<あらゆる材を集積基地に集める>

集積基地に集まった材の価格決定は当然問題になりました。素材業者と呼ばれる木を伐る人たちは、少しでも高く買ってほしいと思っています。一方で加工する人達できるだけ安く買いたいと思っています。素材業者は、トン当たり6,000円以下だったら原価を割り、誰も材を出さないと言いました。1,000円でも高いという加工業者もいました。その時、海外の事情をよく見ている大学の先生がヨーロッパでは3,000円だと言い、3,000円でやってみようか、という話になりました。この3,000円と言う価格は全員不満です。ですが、6,000円以下だったら出さないと言った素材業者が、すぐに材を出してくれました。彼が集積基地に持ってきたのは、市場に出せない風倒木です。10tトラック一杯で30,000円になりました。木材市場と違って、その日のうちに現金化できます。今まで捨てていたような木もお金になるとわかり、広葉樹もふくめ、さまざまな材が集まるようになってきました。

 

<エネルギーの地産池消を進める>

同時に、地域でボイラーがあるところを全部洗い出す作業を進めていきました。償却年数が経過しているボイラーは、少しずつ木質バイオマスボイラーに換えていきました。その頃、木質バイオマスは、ペレットにしてストーブで利用する地域がほとんどでしたが、ストーブは冬の時期しか動きません。ボイラーは絶えず動いていますから、年じゅう木が必要になります。そうした結果として、地域内のエネルギー自給率が11.6%までになりました。重油価格に換算すると年間14億円のエネルギーが地産地消になりました。そのうちの9億円が地域の経済を潤し、5億円が山に戻りました。これで初めて、祖父の時代に植えた山は、負の財産ではなく、プラスの財産に変わっていきました。

さらに、市の職員は、バイオマスに関する出前授業を小中学校でやるようになりました。観光連盟は、市内のバイオマスの取組みを紹介する「バイオマスツアー真庭」をはじめました。子どもたちが変わり、大人も変わり、市民の意識が変わっていきました。

 

<新たな価値観をつくることで地域は再生する>

私たちは、ものごとの価値をすぐにお金に換算して考えます。しかし、本当にやらなければならないのは、15年後、20年後にどういう社会を作るのかということです。その中には、お金や数値で計れるものもあるし、計れないものもあります。たとえば、真庭では、みんなで木材の価格を決めたことによって、自治意識が生まれ、信頼関係が出きて、さらに次世代が育ったということが重要です。その地域にしかない、お金に単純に換算できない価値を得ることができたのです。

この50年の日本は、経済性、効率性、合理性だけを考え、関係性というお金で計れない価値をわずらわしく不便なものだと言って捨ててきてしまいました。しかし、地域づくりは、人と人、人と自然、世代と世代の関係性を再構築することが最も重要です。お金や数値で測れない価値も含めて、新たな価値観を生み出し、新たなライフスタイルをつくっていく。そうすることで、真庭の産業も暮らしも変わり、何より地域の人が、地域に対して誇りをもつようになったのです。

 

■塾生、聴講生の感想

「木の伐採については、ネガティブなイメージがばかり持っていましたが、日本の森の利用は、人間と森が持ちつ持たれつの関係であることが理解できました。」

「今の時代にあるいいところも生かし、昔ながらの価値や感覚に戻ることも必要だと感じました。」

「木地小屋作りから木碗作りまでの作業が、わずかな道具でできてしまうことに驚くと同時に、木地師という生き方は過酷なものだと感じました。」

「ガスが入る昭和30年頃までは炭と薪が当たり前で、草刈り場を焼畑にしていたという話を聞き、自然が生活の一部として管理されていたことがわかりました。」

「地元の人とのつながり、信頼関係、持続可能であることなど、お金に換算できないところに価値を置いているビジネスモデルにとても感銘を受けました。」

「製材所で仕入れた原木のうち、6割ほどしか製品として出荷されないと聞き、とても驚きました。」

「スギやヒノキの原木価格が予想以上に安価であることに驚きました」

「祖母がどんな思いで山に木を植えたのかと考え、山の手入れをやろうかと思い始めました。」

「真庭のバイオマスの取り組みは、ディテールの積み重ねが現在につながっていることがわかりました。13年後に何をしているかをイメージしながら、今を変えていきたいと思います。」

 

■おわりに

パネルディスカッション、現地見学、食事、宿泊の準備にご協力いただきました地域の皆さま、本当にありがとうございました。

 

次回の講座は8月20、21日(土・日)、「地域のお年寄りに話を聞く」です。

 

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真庭なりわい塾 第3回講座

「地域の産業と暮らし~森林とバイオマス~」

開催日:2016年7月9、10日(土・日)

会場:中和小学校、真庭市役所

内容:

(1)講義「日本の森と人の暮らし」

※講義資料「なりわい塾2016「森林とその利用」①」、「なりわい塾2016「森林とその利用」②」「なりわい塾2016「森林とその利用」③」、「なりわい塾2016「森林とその利用」④

(2)映画「奥会津の木地師」

(3)パネルディスカッション「中和の森の歴史」

(4)一般社団法人アシタカの取り組み紹介

(5)人工林、木材市場、製材所の見学

(6)講義「森林のバイオマス利用について」

※講義資料「「里山資本主義の道のり」①」、「「里山資本主義の道のり」②」、「「里山資本主義の道のり」③

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